書き続ける!住職の平常心日記

静岡県にある曹洞宗のお寺、正太寺の住職が物欲との戦いを公開します。

敬遠してきた世界

手書き。それは私が最も忌み嫌って生きてきたものです。なんの比喩でもなく、文字そのままに、手書きというものをひたすらに嫌ってきました。

私が人よりもデジタルデバイスを多く使う理由も、結局はそこに行き着きます。

私の原点ともいうべき、手書きへの忌避。

そこに今、改めて取り組み始めています。

昨日も書いたように、今日は保護司会の研修会がありました。自主研修ということで、外部から講師を招かず、今までの経験をもとに質問やら疑問やらをお互いに出し合うという形で、非常に有意義な時間となりました。

普段は聞きづらい内容も今日なら気軽に尋ねられるという雰囲気があり、まだ4年目に入ったばかりの新任保護司にとっては全てが自分の糧になる情報でした。

それらを、iPadを使ってメモしていきます。配布されたレジュメにもメモ欄がありますが、後から振り返るときにそれでは見つけられません。自前ノートを用意してもいいのですが、常に持ち歩くわけではありません。

iPadでメモをし、最終的にはiPhoneからも見ることが出来るようにしておけば、きっと役に立つことでしょう。

手書きが嫌いなため、今まではiPhoneのメモアプリに入力してたりしましたが、手書きでメモをすると一覧表示した時のサムネイルだけで目的のメモを探せたりもします。

メモアプリによっては手書きで入力しても、文字として検索が出来るものもあります。視覚的な検索と、デジタルな検索、両方に強いのではあれば、紙へのメモよりも優っていると言えます。

もちろん、紙のノートも物としての質感が高いものや独特なものもあったりと、それ自体が魅力的な場合もあって、機能性よりもそちらに惹かれる場合も多々ありますが。

とにかく、悪筆な私でありますが、iPadでの手書きメモに挑戦を始めました。

そこで気づいたことが一つ。

もしかしたらボールペンで文字を書くよりも筆で書く機会の方が多いかもしれないという特殊環境のせいか、手を持ち上げて書いた方が字が書きやすいように感じたのです。

普通、ペンを持って文字を書く時って、小指の下の柔らかい部分を紙につけて書きますよね。iPadでもそれは同じで、むしろ、それを文字入力や画面操作して認識しないでいてくれるというのがiPadでようやく当たり前になったと言えるほど画期的なことだったのですが、しかし、そういう書き方じゃない方が書きやすいって、自分ごとながらすごく意外でした。

小さく書く時には手をついたほうが書きやすいのですが、書いた字の見易さは手をつかない方が良好なので(悪筆にしては)、今後iPadで手書きメモをする時には、手をつかずに書くようになるんじゃないかと思います。

勉強の際のノートとして使う場合は、どちらが向いているでしょうかねぇ。これはまだやったことないので、今後ちょっとずつ。FPの資格取得にチャレンジしたいんですよ。

手書きを始めた理由がもう一つあります。それは、なんだか最近、バカになってきたような気がしていて。記憶力も落ちてきているし、何か学ぼうと思っても身に入らないし。(自分では今まで、バカではなかったと信じている)

指を動かすのは頭に良いという説もあって、それでそろばんが注目された時代もありました。キーボードによる入力も十分に指への刺激になっているとは思うのですが、今の私にはそれだけで足りないのでは、と。

頭のいい人って、結構文字を書いているよなぁ、という印象があり、それを真似てみようと思ったのです。

いきなりたくさんは無理だけど、研修会のメモぐらいの文量からなら挑戦できそう、と思い立ちました。

さあ、どうなるでしょうか。楽しみですね。

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