総代さんとお世話人さんに寄ってもらって、大きな大きな台を作ってもらいました。
奥行き100センチ、幅240センチ、高さ100センチ。
本堂で本尊様をおまつりしているど真ん中の段になっている部分を須弥壇と言いますが、その前にくっつける台なのです。
結制の儀式中に私がそこに乗るんです。時間にして20分ぐらいでしょうか。長く見積もって。
そのための台を作るために、図案の作成、設計図を起こして材料を買い。切断はお店でやってもらったものの、ここまででも随分な時間がかかっています。
そして今日。およそ3時間をかけて組み立てました。暑い中、本当に暑い中、ご苦労様でした。
おかげさまで私が乗ってもびくともしない頑丈な台が誕生しました。
この台、一般的なお寺では不要なものなのです。須弥壇の段の部分を外すと、平らになります。そこに乗るんです、普通は。でも、正太寺の須弥壇の段は外せません。なぜだか知りませんが外れません。外しても乗れるように平らになっていません。穴が開いてます。
なぜこのような作りにしたのかは、当時建築した人に聞くしかないのですが、昭和38年に竣工した本堂です。当時のことを知る人もほとんど残っておらず、建築に関わった人は既に彼岸に渡った方ばかり。
正太寺が裕福であれば、須弥壇そのものを改装して、今後の結制に備えるという事も出来たとは思いますが、正太寺の懐事情は非常に悪く、漁師さんが中心のお檀家さんの懐事情も非常に悪く(浜名湖のあさりが全然とれない。みんなアルバイトして暮らしてます)、お金がない時でも晋山結制は修行できるよというお手本でも作ってるんじゃないかという状況ですので。
総代さん方のお力で、材料費だけで台を用意することができました。たった20分の使用時間ではありますが、晋山結制の儀式の中で、最も重要な20分なのです。この場面のためにそれ以外の儀式があると言っても過言ではない、それぐらい大事な20分です。
その大切な20分を、文字通り檀家さんに支えられてお勤めできる。考えているとゾクゾクしてくるし、涙腺も緩んできます。同日壇上で泣かずにやれるかな。古めかしい言葉ではありますが、自分で言ってて泣けてくる言葉を言うんですよ。お師匠さんへの感謝を述べる場面では、既にご遷化されている場合などは特に、涙を流す方が多いです。
私の場合は幸いまだ師匠が健在ですからそこは平気かなと思っていたのに、檀家さんについて触れる言葉の時には、やばいかもしれない。なるべく涙腺を刺激しない言い回しにしておかなくては・・・
いやしかし、これはねえ、住職をしていなければ味わえない感覚です。世間的な尺度で申せば住職というのは典型的にブラックな職種ですが、檀家さんの支えをこんなにもはっきりと感じてしまうと、ねぇ。
言葉に表せない。
本番が近づいてきて、緊張と、ストレスと、いろんなものが私をすっぽりと覆っているのですが、その覆いを跳ね除けて前に進むための力を得られたように思います。
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