書き続ける!住職の平常心日記

静岡県にある曹洞宗のお寺、正太寺の住職が物欲との戦いを公開します。

そういえば昨日久しぶりにテレビを長時間見ました

今日は阿寺の七滝へ行ってきました。おそらくマイナースポットですが、平日なのに駐車場には常に数台の車がとまっていました。誰もいないと思ったんですけどね。ただ、滝へ向かう道の入り口には売店があり、平日でもちゃんと営業していましたから、毎日そこそこお客さんがある模様です。


こんにゃくおでん、6本で300円。ゆずみそを付けて食べるのですが、おいしいです。買ったのは2時過ぎでしたが、今日はもう店じまいだからと、100円まけてくれました。最近そんなシチュエーションに出会ったことがなかったので、素直に嬉しかったです。また次の機会には、必ず買おうと思います。おいしいし。


さて、昨日の話。午前中、子どもをあやしながらテレビを見ていました。平成の仏師というタイトルで、仏像を彫る職人さんの姿を2時間ぐらいでしょうか、放送していました。


こういう番組、好きです。ただ、なかなかゆっくりと見る時間がないんですよね。良い番組をやっている時に、ぐずり続けてくれた次女に感謝。そして、次女のおもりを私に任せてくれた嫁さんに感謝。これがもし素直にお昼寝でもしようものなら、仕事しててテレビを見れない所でした。


番組を見ていて、仏像を見る目を少し変えることが出来ました。今までは、お釈迦様は自分を偶像崇拝することを禁じていたはずだし、信仰心を集中させるアイテムとしての価値はたぶんにあるものの、僧侶がこだわりを持つべきではないと考えていて、必然的に興味を強く持つことはありませんでした。しかし、どんな制作物もそうであるように、仏像一体一体にも、それを彫った人の、作った人の想いが込められているんですよね。ですから、崇拝の対象としてではなく、そうした想いを感じる対象として、興味を持つことは悪いことではないと、思えるようになりました。


仏像の彫りの一つ一つに意味があり、顔立ち、腕のかまえ、目、全体のバランス、そうしたもの全てに、仏師の想いが込められているのです。その想い、仏像に対してそこに仏様が実際にいるのと同じようにしておまつりする僧侶が、しっかりと受け止めなくては。そうすることで、単なる木である仏像が、本物の仏様の現れとして、人々に教えを示す存在になるのだと思います。


まずは手始めに、我が正太寺の本尊様に、面と向かって向き合ってみなくてはなりませんね。