書き続ける!住職の平常心日記

静岡県にある曹洞宗のお寺、正太寺の住職が物欲との戦いを公開します。

昨日の続き

なんでお経の録音話ばかり書いてるかというと、遠方で葬儀を勤めてまして、何も書けることがないからです。

私がお経を読んでいるシーンとしてイメージするのは、本山で大勢で読んでいるシーンです。

お経には決まった音程というものはありません。まず維那というお役の僧侶がお経の題を読みます。その時の音程に合わせて一斉に声を出し、その後は音程の上げ下げもせず、一本調子で読んで行きます。

お経の題を読むときには節のようなものがあります。本山では決まった型があるのでそれに倣いますが、本山を降りた後は、その型が基本であるものの、若干のアレンジが加えられたりします。

ですので、この部分については、自分の理想とする形があります。

でも、お経本体となると、難しい。一本調子で読むというのも、録音するとなるとなかなかの高等テクニックです。

法事の際に、その時一度聞いておしまいというのならばそんなに気にしなくても良いのですが、録音して繰り返し聞くものとなると、些細なことに違和感を感じ、一度感じた違和感は2度と拭い去れないものとなるでしょう。

怖い。

怖いですよ。

ヘッドホンで一定の音を流し続けて、音を取りながら読むしかないとは思いますが、そんな上手に読めるかしら。

また、私が普段お経を読むときには節があります。リズムは一定ですが、音程の上下があるのです。師匠から、一本調子だと聞いている方が飽きるから、と聞かされたことがあります。

大勢で読む時はその一本調子がとても荘厳に聞こえますが、1人でそれを再現するのは難しい。それで、ちょっとした音の高低をつけるよです。

檀家さんが聞きたいのは、おそらくこちら。普段聞いているお経になりますから。でも、正太寺として公式に配るものに、本来とは違う読み方をしているお経を入れて良いものか。考えても結論が出ません。

また、音の高低の具合も、本来は読むたびに変わります。タイミングも違います。ミュージシャンが考え抜いたものと違い、飽きるのはとても早いと思うのです。

怖い。飽きられるのもまた怖い。

でも、とにかく始めないことにはなにも生まれません。とりあえず一本調子で録音して、欲しがってた檀家さんに使ってもらって、感想を聞きましょう。それが1番。

そう言って、取り掛かるまでに一ヶ月くらいを要することはざらにあるので、もし万一、これを読んで仕上がりを期待した方がいらしたら、気長にお待ちください。うまくいかなかったら日記のネタとして取り上げます・・・

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