書き続ける!住職の平常心日記

静岡県にある曹洞宗のお寺、正太寺の住職が物欲との戦いを公開します。

「ご清祥のこととお喜び申し上げます」

正式なお手紙の出だしには定型句とも言うべきお馴染みの言葉が使われます。たいていは相手が元気でいることが前提になっています。

私はこの出だしが苦手。言葉が苦手なわけではなく、使うことを嫌うわけでもなく、ただ単純に、送った相手が入院中とかだったらどうするんだ、と言う気持ちが湧いて、使えないのです。

相手が特定の方なら、ある程度状況が分かるので、お元気そうなら使いますし、そうでなさそうな情報を得ていれば使わない、と使い分けができます。私が悩むのは、多数の方に同じ文面で送る場合です。

特にお寺から発信するものは、お相手がご高齢であることが多く、何かしらの療養をしている可能性がグッと高まります。

便利な定型句ですが、使いたくても使えない。そういう心持ちなのです。

実際のところ、受け取った相手がその文を気に止めるかと言ったら、おそらく気にも止めず、もしかしたら最初の段落は読み飛ばしさえするかもしれません。

だから気にせず使えば良いと思うのですが、それでもやはり、実際に文章を書いていると、結局使えないんですよ。

単純に使わなければ良いだけなのですが、どうしても気になってしまうのは、結構いろんな方面からこうした出だしのお手紙をいただくからです。受け取るたびに、やっぱりあまり気にしなくて良いのかなぁ、と思えます。

ネットを調べると、相手の状況によっては使わないほうがいいと書いてあるところもあって、それはそうだろうと思うのですが、その情報の書き手がこれを文化と捉えているのか、マナーと捉えているのか、気遣いと捉えているのか、それによっても受け止め方も違ってくるな、と。

なんとも難しい。

ただ、自分で難しくしている感もあり。

もっと気楽に考えて良いのかな。どうなのかな。

以上を踏まえて、こうした気遣いの気持ちがこもり、なおかつそれが重く伝わらない挨拶が書けたらいいなぁ、と思っております。

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