書き続ける!住職の平常心日記

静岡県にある曹洞宗のお寺、正太寺の住職が物欲との戦いを公開します。

プログラマー

日用プログラマー副住職ですこんばんは。

お寺とは違って個人で運営しているサイトでちょっとしたプログラムを公開していたりします。正太寺てんぷる開設時からある「もばいる坊主」です。

普段、いくつかのフリーソフトを便利に使わせていただいているのですが、このちょっとしたプログラムを公開するときだけは、私も作者側の立場になります。そうすると、けっこうしんどいことが分かってくるんです。


自分が使うだけならば、とにかく動けばいいし、どこかおかしなところがあってもその都度直せばいい。でも、それを公開するとなると、たとえ無料といえども、やっぱりへまはしたくありません。慎重に動作確認して、自分がしないような使い方もしてみて、自分では分かり切っていることを説明書としてまとめて、そしてようやく公開するわけです。
で、動作確認はばっちりのはずなのに、やっぱりおかしいところが残っているもので、その修正に追われて。

まあでも、おかしなところを報告してくださる人たちとのやりとりもなかなか楽しいものですから、それはそれでいいのですが。
とにかく、そうやって自分が公開する側にたつと、私なんかが作ることが出来ないような高度なソフトをフリーで公開してくださっている作者さん方は、すごいなぁと思うわけです。
高度で複雑なソフトであるほど、説明書だって複雑になります。うまく動かないところが出てくる可能性だって大きくなります。うまく動かないと言われれば、そうやって公開する人間の性として、直したくなるんですよね。


すごいものです。そうまでして、公にするんですから。フリーソフトを使うときは、心して使わなきゃいけないと、強く思います。
お寺でも、道具や着物をいただいたりしたら、そりゃあもう、大切に扱います。たいていのものが高価であるというのもありますが、でもやっぱり、頂いたものですからそれが何であれ、大切にしたい気持ちが強いです。


フリーソフトだって、同じなんですよね。今はインターネットで簡単にダウンロードできて、いくらでも使うことが出来ます。それゆえに、ありがたみが薄れすぎている気がします。
何かものとして存在しているものは、それを作った人が必ずいる。対価を払ったのならばともかく、それを好意で無償で提供して頂いてるならば、それなりに感謝して使うべきだと思います。


私も、だれかにフリーソフトを勧めるときは、そのあたりの事情も多少は伝えてあげなきゃいけないなと、そんなふうに思います。使ってもらいたくて作る人と、それを使う人。お互いに、より高めあえるような、そんな関係を維持できたら、最高ですよね。