書き続ける!住職の平常心日記

静岡県にある曹洞宗のお寺、正太寺の住職が物欲との戦いを公開します。

MRIの結果説明を待ちながら、花草団子を思う

昨日の電話を受けて、さっそく診療所に来ています。診察開始時間には20人近くの待ちが発生することが常のお医者さんなのですが、今日はなんと9番目。これはうれしい。

とはいえお一人に無限に時間がかかることもよくあることなので、のんびり待つことにします。今日は暖かいから、夜になったら自転車で漕ぎ出そうかな、などと考えながら。

昨日も書いた通り、2月15日は涅槃会ということで、未明から花草団子をお供えしてあります。そんな話を先日の5歳児の坐禅体験の際にお話ししたら、先生が子どもたちを連れて遊びに来てくれました。

先生はやや遠慮しながらも、子どもたちに花草団子を持たせてくれたようです。全員分は足りたか分かりませんですが、まだお供えは残っていました。足りたのか、遠慮したのか。子どもたち一人一人に渡ったならいいのですが。

涅槃会に花草団子をお供えする由来というのも、いまいち判然としません。お釈迦様のお骨がカラフルに光ったからという説もありますが、お釈迦様といえどもそのお体は人間のものと同じはずで、光ったのだとしたら、見る人の思いによって光ったように見えたのだと思います。

だからそういう起源であっても何ら不思議はありませんが。ふーむ。そういうわけで、その説を採ると、花草団子はお骨を模しているのだそうです。お釈迦様のお骨を輪切りにした、と。

いや、切らんだろ。

失礼。つい。

いずれにせよ、涅槃会に際してお供えしたその御下がりには、きっといいことがあります。持ち歩けば災難除けに、食べれば無病息災。

なんて都合のいい話は本来あるわけもないのですが、しかし、信仰心を持って口に運んだ場合は、必然的にお釈迦様の説かれる生活を心がけることになります。災難除けや無病息災も、ぐっと現実味を帯びてくるわけです。

信じる者は救われるのではなく、信じるからこそ救われる。難しい話ではありません。仏教に基づく信仰生活は、日本人にとっては、規則正しい生活とほぼ同意義。加えて最低限朝に一度仏様やご先祖様に手を合わせる。まずはこれぐらいからで十分です。

言い換えれば、一日一度、仏様を思って手を合わせ、ご先祖様を思って手を合わせす。それを生活に加えるだけ。

物足りなくなったら、ご家族のお墓のあるお寺のご住職や、近所のお寺のご住職に次の一手をお尋ねください。気さくな和尚さんと巡り合えると尋ねるのも気軽にできて最高ですけれど。

涅槃会に際して、せっかくなので仏教へのお誘いでした。こうした教えを残してくだっさたお釈迦様に、今一度、感謝の合掌礼拝を。

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