書き続ける!住職の平常心日記

静岡県にある曹洞宗のお寺、正太寺の住職が物欲との戦いを公開します。

いつ使い始めようか

これは娘が修学旅行で買ってきてくれたお土産のボールペン。もう4年前になります。東京へ行き、まだ午前中のうちに先生によって撮影された電車内の写真に、なぜか疲れ切った表情で写っていて、学校に残った先生方から大層心配されたという話がつい昨日のことのようです。(ちょうどPTA会長をしていたせいか、そんな話も伝わってきたのです)

宗務所へ通っている頃には通勤用のカバンにずっと入れてあり、宗務所を退職してからは寺務所内に常にあり、今はまさに手の届くところにずっと置いてあります。

第一子の修学旅行のお土産ですから、一際印象深く、また、文房具好きの父親の心をぐっと掴んで離さない一品となっています。

それだけに、使えないまま。使い始め、いつか壊れる時が来たら、捨てなくてはならないのかと思うと、使い始めらません。

ボールペンの本質としては、使わないことのほうがもったいない。でも、お土産としてのボールペンは、使う以外にも価値があるのです。そう信じています。

だって、どうしても使い始める気になれないんだもの。

これを執着と呼ぶべきなのか、それとも別の名前で呼ぶべきなのか。私のことを僧侶と認識してくださっている方々にとっては、私がそれをどう考えているのか気になるかもしれません。大切なのは、それが苦しみに繋がっているかどうか、です。

お土産のボールペンを使い始めないことは、何も苦しみには繋がっていません。だから、この行為が仏教的にどうであるかなどは一切考える必要がないんです。もともと存在しない苦しみからは、いかに仏教といえども救すすべはないですからね、大抵の場合は。

最近出張の機会もないので、子どもたちにお土産を買うことも無くなりました。でも、こんなにも印象に残るお土産を渡すことが、私は出来ていただろうか。これから出来るだろうか。その方が難問です。

息子の机の引き出しの奥の方に、昔渡したお土産がそのまましまわれているのを見ると、意外に大切なものとして認識されているのかも、と思うことはありますが、存在を忘れられているだけではないかという疑念もあります。どうなんでしょうね。聞いても素直に答えるわけないし。

住職って、亡くなると単独のお墓を建てることが多いです。正太寺も代々そうしてきました。そもそも家族を持ちませんでしたから、それが必然であったわけですが、それならそれを活かして、お墓に一緒に入れてもらおうか。そんなことまでちょっと考えているんですよ。

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