書き続ける!住職の平常心日記

静岡県にある曹洞宗のお寺、正太寺の住職が物欲との戦いを公開します。

デジタルフォトフレームにうつる写真を見ながら

液晶画面付きのEcho Showをセールのたびに買い増して、とうとう寺務所にまで設置しています。今日の予定を表示してくれたり、デジタルフォトフレームになったり、色々と役に立ってくれます。

中でもデジタルフォトフレームは、今までこうしたものを使ったことがなかったのでとても新鮮。数年前の同じ日の写真だったり、全然関係ないものだったり、表示のためのアルゴリズムはよく分かりませんが、とにかく突然思いもしない写真が表示されて、刺激的です。

集中力が途切れた時などにふと視線を上げるとそこにデジタルフォトフレーム中のEcho Showがあって、主に子どもたちの写真が写し出されます。

旅行中の写真だったりすると、今はただただ、マスクをしていないことにとても感動しますね。マスクをしている写真は滅多に登場しません。なぜなら出かけていないから写真を撮っていないんです。

そうか、将来振り返った時に、この2年ほどの間、子どもたちの写真が極端に少ない時期ができてしまっているのか。その間にも子どもたちは日々成長していて、とても記憶をしおせるものではありません。何もなくても、もっと写真を撮っておくべきだったな・・・

今は写真がデジタルになったおかげで、撮影コストも保管コストも極端に安くなっています。撮影すらもスマホでほとんど用が足りますから、撮っていない=撮ろうとしなかった、という図式が成立してしまって大変よろしくない。幸い子どもたちは写真に写るのがそんなに好きではありません。でも、大人になり、いい年になった頃に子どもの頃の写真を振り返り、なんでこんなに自分の写真は少ないのかと、勝手なことを考えたりするものです。

私も自分の写真は極端に少ないんですよ。でもそれはもしかして、自分が写りたがらなかっただけかもしれませんよね。一枚の写真に必要なコストがとても高かった時代になりますから、写りたがらない子どもを無理に写すようなことは出来なかったはずです。先々代住職の葬儀費用、支払う時になって、どこかにあると思ったらどこにもなくて、後から必須にかき集めたというぐらいですから(師匠の実家からも出してもらったという話を聞きました。)。

住職の葬儀ですからお寺からお金が出せます。それが全然なかったというのですから、住職個人にお金があるわけもなく。後継者である私の父でもある師匠にだって、当然お金はありません。そんな中で育ててもらったのですからね、写りたがらなかったら写真は撮ってくれませんよ。

思えば子どもの頃、写真は苦手だったような気がするな・・・今も得意ではないし。

そう思い至るまでは、第三子だから写真を撮るのにも飽きたんだと思っていました。初めての女の子である妹の写真はたくさんあったから余計に。多分それは、生活に少し余裕ができてきたタイミングと合致してるんでしょう。先々代が遷化して師匠が跡を継いだ時、私が3歳。妹は誕生していませんでした。私の可愛い盛りの時期と、跡を継いで右も左も分からず、住職として必死になっていた頃とがちょうど重なります。

そういうことか。

嫉妬に近い感情を冗談混じりに持った時期もありましたが、点と点が繋がると、それはもう必然だったのだと思えますね。ふむ。

デジタルフォトフレームを見上げながら、そんなことを思う時間。これは幸せな時間です。良い時間です。その手前に手付かずの事務仕事が転がっていなければ尚良いのですがね。

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