書き続ける!住職の平常心日記

静岡県にある曹洞宗のお寺、正太寺の住職が物欲との戦いを公開します。

一方的にしゃべってないか?

法事の際などに檀家さんとお話ししているときには気づかないのですが、その帰り道にふと思うのです。さっきの話、自分のことばかり話していなかったか?と。

会話に合わせて話題提供をしつつ、檀家さんのお話ししたいことを聞く。これが私の理想ですが、ついつい自分のことばかり話してしまってはいないだろうかと、冷や汗をかくのです。

話している時に気がつけば、軌道修正もできるかもしれませんが、いつも後から不安になります。自分の話もしつつ、それを呼び水として檀家さんの話を聞く。そのバランスが大切なのは言わずもがな。でも振り返ると、自分の話題が多かったような気がしてなりません。

録音して後から聞き返すのも勉強のためには必要かもしれませんが。会話を録音されるなんて、檀家さんからしたらあまり好印象ではないでしょう。かといってあらかじめ断りを入れたら、その時点で自然な会話はできなくなります。いや、断りを入れないで録音したとしたら、その時点で信頼関係が崩れ去りますね。この方法はダメだ。

やはり会話に夢中になり過ぎないようにして、その代わりにバランスを保つように意識を保たなくては。

いやしかし、おしゃべり好きの住職として好印象を持ってもらっている部分もあるかもしれない。バランスに意識が行き過ぎると、最近の和尚、ちょっと変、となるかも。

正面切って尋ねてみても、「和尚は自分のことばかり喋って、つまらん」なんてことはなかなか言えないでしょう。お世辞込みで言ってくれた意見を、どこまでがお世辞でどこまでが本音かを聞き分ける能力は私にはありません。言い切れます。私は人の言葉を鵜呑みにして頭から爪先まで信じ込みます。嫌味にすら気づかないのです。45年間生きてきて、嫌味を言われずに過ごすなんてことはないと思います。でも私の記憶では、嫌味を言われた記憶はないのです。つまり、嫌味に気づかないんです。

ある意味とても幸せな人ですね。たまたまそれで生きてこれる環境が私にはありました。それもまた幸せなことでしょう。でも普通は、きっと、お世辞・本音・嫌味、そうしたことを聞き分ける能力がないと生き抜いていくのは難しいのだと思います。

住職という立場が、そうした能力がなくても生き抜ける環境を与えてくれるのだとしたら、うん、そうだ、みんな住職になろう。幸せへの近道だ。毎日のように運営費のことに頭を悩ませているけれど、自営業の方なら同じことでしょう。みんな、住職になろう。

ところで、なんの話でしたっけ?

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