書き続ける!住職の平常心日記

静岡県にある曹洞宗のお寺、正太寺の住職が物欲との戦いを公開します。

そういえば人形供養というのはやったことがない

檀家さんからの問い合わせで、人形供養について考えました。

師匠がむかーし一度、頼まれてやったことがある気がする、という程度には正太寺での人形供養は一般的ではありません。そもそも仏像でもお位牌でもないです。顔のあるものは魂が宿ると言われますが、お寺では厳密にいえば魂を扱っているわけではありませんし。

精抜き、精入れというのはありますが、それも魂を出したり入れたりしているわけではなくて、表現自体が便宜的なもの。お位牌を移動させる、仏壇を移動させる、その時にその旨を報告するために行っているわけです。

開眼供養というのは、仏像の目を入れる儀式のこと。黒目の部分を書き入れると、仏像に途端に表情が出るようになります。どの位置に、どんな大きさの黒目を書くかで仏像の表情が決まるため、大変重要なのです。それゆえに、目を入れる時に合わせて法要を勤めます。

お仏壇の開眼供養というのは、実際に目を入れるわけではありませんが、本尊様を新しいお仏壇にお迎えするためにおこないます。決して、仏壇に魂を入れるわけではありません。お位牌も同じ。ご先祖さまや新しい仏様に、お位牌を用意しましたよと報告するのが目的です。

お位牌に新しく字を入れる時も、一旦お仏壇から出しますよ。そして帰ってきましたよ、と報告するのです。ほら、いきなり動かしたらびっくりしそうでしょう。実際にはびっくりしませんが、そういう心遣いです。

というわけで、人形供養です。人形はあくまで人形。仏様が宿るわけでも、神様が宿るわけでもないと考えます。可愛くて、思い入れがあるかもしれませんが、だからといって供養をしなくてはならないわけではありません。髪の毛が勝手に伸びるような何かした方がいいと思いますが。

でも、それでは心に不安が生じるというのなら、その不安を取り除く何かをしなくてはなりません。だから人形供養が出てくるのです。人形供養をしていると見せかけて、心の不安を取り除くことが本題。そのことを話して理解してもらえるようならそれもよし。お話しする中で、このことを話しても納得してもらえないようなら、人形供養になるべく見えるように法要を勤めなくてはなりません。

騙しているわけではありませんが、目的を果たすために最も確実な方法をとると、こうなります。

例えるなら、友引にお葬式をやらないのと同じです。六曜に何の意味もないのに、その字面から人々の生活を縛っています。人形も他のあらゆる物と同じように、不要になったら処分するだけのことなのですが、顔があるというだけで人形供養だ何だと騒ぎになっているのです。

そう思うならば、毎日使っている箸や歯ブラシを捨てる時こそ、供養をするべきでは。お世話になっていますでしょう。

捨てるときに、感謝の気持ちを持って、そっとゴミ袋に入れる。それで十分だと思います。ただでも、不安を取り除くのも仏教の役目。その最終目標のためには正しく理解してもらえるように、より布教に力を入れなければなりませんが、力不足のために現状ではみなさんが不安を抱いてしまいます。経過措置としてならば、人形供養の存在も、許容されるのかな、と思います。

そうでなくてお寺が人形供養を大々的に宣伝し出したら、それは単なる商売。しかも供養しないといけないように不安にさせているのですから、霊感商法とも言えます。仏教の目的からは真逆の行い。慎むべきでしょう。

お宮さんがやるのは、仏教側からは何も言えません。祈りによって神様が宿ったと思われるのなら、神様に離れていただく儀式は必要になるのでしょうね。

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