書き続ける!住職の平常心日記

静岡県にある曹洞宗のお寺、正太寺の住職が物欲との戦いを公開します。

法話をしないと終わるのが早い…

法事の会場もお寺を利用するお宅が増えました。親戚も呼ばないか近場にいる、ひと家族だけとか、お寺からお願いしなくてもなるべく人を集めない形になっています。

私の方も読むお経の説明を簡素化して、お経の後に欠かさず行っていた法話を省略させてもらっています。法話無くして法事の意味なしというぐらい法話にはこだわっていましたが、感染者ゼロの街とは言え、人前で長く喋るのは憚られて。

施主宅からお寺への移動時間もなく、お焼香する人数も少なく、そして全体を通して私の喋りが短い。おかげで、1時間かからずに法事が終わってしまいます。

大変気楽な法事になっているような気がしないでも無い。

いいのかな。悪いのかな。

法事というせっかくの機会なので、お釈迦様の教えに少しでも触れていただこうと心がけてきました。それが自分の責務であると。

その考えは今も当然変わらずに持っていますが、一方でこれだけ法事が気楽なものとなると、主催するお施主の立場からは計画しやすいものになるなぁと思ってもしまいます。1時間もかからないことだし、親戚のもてなしも最低限でいいし、それなら法事をやろうじゃないか、という具合に。

いや、正太寺のお檀家さんは大体皆さん、法事は欠かさず行ってくれていますので、その一回一回の負担がすごく少なくなるんだなぁ、と。

もちろん、法事に親戚一堂を呼ぶというのはそれだけで価値のあることで、そこを途絶えさせてしまうのはあまりにももったいない。薄くなりがちな現代社会での親戚のつながりを再確認できる数少ない機会ですから、いずれ元の形に戻って欲しいと思っています。

が、理由はどうあれ、一度始まった流れというのは、止められない可能性も強いです。そうなると、辛いな。十数年後になって親戚付き合いの薄さが、悪影響を及ぼすようなことにならないといいのですけれど。

今は命に関わる問題ですから仕方ありません。でもいずれウィルスを克服した暁には、そのお祝いも込めて、親戚を大勢集めた法事を行ってほしいと切に願っています。