書き続ける!住職の平常心日記

静岡県にある曹洞宗のお寺、正太寺の住職が物欲との戦いを公開します。

火葬場にて

何度経験しても、火葬場でお経を読むというのは、辛いものです。葬儀中は平静を装えたご遺族も、火葬場では目を真っ赤にされます。私のように、血のつながりもなく、ただお檀家さんと菩提寺の副住職という関係で、年に何度かお話をする程度の関係しか無くても、その記憶が蘇ってきて辛いのですから。


自分自身も切なく、辛い時に、ご遺族が涙を流すのを見ながら、お経を読む。声がうわずることも珍しくありません。そんな具合ですんでね、出かける前から、憂鬱モードになったりもします。


何でお寺の仕事は、葬儀が中心なんだろうと、最近はそんなことばかり考えています。本来仏教は、生きている人のためにこそあるべき。死に直面する葬儀という場で、仏教による安心(「あんじん」と読みます)を得られるように布教するのも大事なことですが、その前に、日々の布教がもっと大事です。


死というモノを実感している時の布教は、いわば飛び道具。地道な毎日の布教活動こそ、宝刀でしょう。


問題は、今の世の中、それじゃあおまんまが食べられない、ということです。今の寺院経営方法では、どうしても現金収入を必要とします。住職始め、住職一家が暮らすのにはお金が必要です。世襲でしか後継者の確保の見込みが立たない現在、住職が家庭を持つことは次善の策ですから、そこは今問題にしてもしょうがない。どのみち、弟子がいて一緒に暮らしていたら、やはりお金はかかります。


昔は、そう、ずっと昔は、大スポンサーが付いていて、お寺の維持も、拡張も、僧侶の生活も、全部面倒見てくれていました。そうでなくても、信者さんが食べ物を運んでくれたり、それも難しいと自分たちでも畑を耕しました。


でも今じゃ、お寺は農地を持つことすら出来ません(日本では法律で禁じられています)。お檀家さんが野菜を持ってきてくれることは今でもよくありますが(本当にありがたいです)、それだけで生活が出来るかというと、出来ません。


などなど、追求していくとキリがないわけですが。車が無ければ法事に伺うことも困難な昨今、現金収入が得られることを優先してしまうのは、一ヶ寺の住職とて、人の子であると言うことです。住職にとって、他の何事にも変えて優先すべき事項は、お寺の維持、ですからね。そのために、葬儀に力が入ってしまうのは、もう、仕方がないことです。


でも、仏教の本来の立ち位置を考えたら、それは問題のあることです。葬儀に変わる収入の手段というと、結婚式を推したいです。悲しみの場ばかりにいますから、お祝い事の仕事が増えたらどれほど楽しいことでしょう。人生の門出に立つ二人に、祝いの言葉として仏教の教えを説くことが出来るなんて、幸せです。


しかし、仏前結婚式の認知度は、ゼロと言っても良いほどに低いです。それを上げていくためには、やはり日頃の布教活動が重要であり、しかし寺院の維持という最重要命題を果たすためには現金収入を求める必要があって、日頃の布教活動がおろそかに・・・という無限ループに、いつも身を置いているんです。


この問題、私の代のうちに、前向きに解決出来るのかなぁ。不安は募るばかりです。