書き続ける!住職の平常心日記

静岡県にある曹洞宗のお寺、正太寺の住職が物欲との戦いを公開します。

初どき5日目。じーんと来た弔辞。

5日目まで来ました。今日は役僧が1件、正太寺のお檀家さんのご葬儀が1件。綱渡りの移動でしたが、両方のお葬式をしっかりとお勤め出来ました。


その葬儀でのこと。
亡くなられたのはお若い方で、上司の方が弔辞を述べられました。その弔辞が、気持ちの伝わる良い弔辞だったのです。


一般的に弔辞というのは、厚手の白い紙にしたためて、それを読み上げるのですが、この方は原稿も無しに淡々と話し始めました。紙に書いてある方が奉呈することも出来てセレモニーとしては形がしっかりするのですが、弔辞の目的は故人に気持ちを述べることと、故人の人となりを会葬の方へ伝えることですから、形式にこだわりすぎる必要もありません。


声は大きいわけでもなく、どちらかと言えば静かな声です。しかし、それがかえって、染み入ってくるのです。話すペースも聞いていて疲れない良いペース。


そして、そんな技術的なことよりもなによりも、故人がどういうひととなりであり、どれだけ仲間から慕われていて、仕事に精を出していたか、そしてこの人かどれほど悲しんでいるか、そういうことが目に浮かぶようなお話だったんです。


普通は最後に、日付と肩書きと名前を加えるのですが、それも無しで、どうか安らかにの言葉で締めくくられました。だからよけいに、その場で故人に話しかけているという自然さが強調されて、印象深く残りました。


演説でもないですし、感情を強調しているわけでもありません。まさに、染み入ってくるという表現がふさわしい弔辞でした。若くして亡くなられたことは大変残念で悲しいことです。ただ、こうして、故人のひととなりが、素晴らしい弔辞によって多くの会葬の方に知ってもらえたことは、幸いであったと思います。


私もまた、このような弔辞を聞くことが出来たのは、ありがたいことでした。若くして亡くなられた方の葬儀という、決して望ましいご縁ではありませんが、しかしこうして接したご縁に、感謝をしたいと思います。