書き続ける!住職の平常心日記

静岡県にある曹洞宗のお寺、正太寺の住職が物欲との戦いを公開します。

お坊さんだけが知る違い

7月盆の最終日ですが、正太寺は6月盆。7月盆の皆様、お疲れ様です。もうちょっとですね。あとは片付けて終わりになりますか?

そんな日に、お役僧(葬儀の手伝い)に呼ばれておりました。普段は呼ばれることのないお寺さん。7月お盆地域のため、この日は普段来てもらうお寺さんも身動きが取れず、私にまで連絡が来ることとなったのです。

私という存在を思い出していただき、ありがたいことです。

さて。曹洞宗の儀式は、かなり細かなところまで定められています。しかし、それでも地域差があったり、会場に合わせて臨機応変に対応する必要があったりして、儀式の流れを把握していても実戦ではなんの役にも立たないということはしょっちゅう。

葬儀はそうした臨機応変さを最も求められる場です。最近は葬祭ホールで行うことが多いですが、故人の自宅で行うときには、仏間の間取りも千差万別。それに合わせて各人が動きを変えながら、スムーズに儀式が進行するように努めます。

さらに、地域差もかなりあります。本来3回唱和する偈文を、時間に追い立てられる昨今の事情に合わせて大抵の場合1回だけに省略し、残りの2回は導師1人で唱えることになっているのですが、唱和する1回が、3回のうちの最初の1回なのか、最後の1回なのか。広くない同じ市内でも違っているほど。

大体45分で葬儀が終わるようにその他にも少しずつ削られているのですが、削り方も地域により様々。

静岡県曹洞宗の寺院数が多いので「地域」という括りになりますが、寺院数が少ないところでは、多分「お寺」という単位で差異が生じているのではないか推測しています。

そんなわけで、初めてお呼ばれしたお役僧は、とても緊張します。(久しぶりの場合も覚えていないのでとても緊張します)

細かなところまで確認できれば良いのですが、諸々事情もあり、できません(他のことを話し込んでしまうとか)

結局その場その場でいくつかのパターンを想定し、先読みをしながら食らいついていく展開となります。それでも、これができるようになったのも経験を積んだからゆえ。20代の頃にはとてもとてもそんなことはできませんでした。そして、40代なかばの年齢ともなると、導師の側仕えとしての侍者的な立ち位置のことは要求されなくなるので、自分の役割だけに集中できます。だいぶ気が楽。

今日もかなり集中して先読みをしていましたが、それでも一瞬遅れるシーンがあってとても悔しかった。まだまだ甘いですね。

参列者から見たら全然気づかない部分だと思いますが、僧侶の間ではすぐに分かってしまう部分。場合によってはミスに数えられる。その場に先輩がいれば、失敗したと気付かれたくないですし、後輩がいれば、失敗は見せたくないですし。どちらにせよ緊張するのです。

割と頻繁に葬儀に参列する時期というのが、人生の中には登場します。そうすると、お葬式に来るお坊さんの顔をなんとなく分かるようになります。見たことのないお坊さんがいるなと思ったら、そのお坊さんは、今日の私のように、静かな戦いをしているのかもしれません。故人との別れをする大事な儀式ですが、そんな側面もあるのだなと思うのも良いと思いますよ。

最近は導師1人での葬儀も増えているようですから、そもそもよそのお坊さんを見る機会が減っているかもしれませんけれどもね・・・このことについての言いたいことは今まで散々書いてますから、またの機会にしておきます。

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