書き続ける!住職の平常心日記

静岡県にある曹洞宗のお寺、正太寺の住職が物欲との戦いを公開します。

慣れない地でのお役僧

多分呼んでいただくのは2度目か3度目だと思うのですが、普段は困った時にお願いするばかりのお寺さんのお役僧へ行ってきました。

葬儀の次第というのは、同じ曹洞宗であっても地域によっても少しずつ違いがありますし、お寺によっても違いがあります。地域によるものは長い年月の中で地域事情に合わせて変化してきたことが理由でしょうし、お寺によるものは、今までの住職か、もしくは現住職の考えによる影響が大きいです。

本来であれば戒律を授けてから棺に納め、担いで墓地まで行って火葬にしたり土葬にしたりという、その1つ1つを法要としてお勤めするべきものを、今では社会事情にあわせて1つの会場内で全て済ませてしまっているのですから、そもそもが無理のある設定なのです。

その中でも、なんとか本来のやり方に近づけようと、知恵を絞ってそれぞれのお寺さんで工夫をしているため、ちょっとずつ違いが出てきます。ですから、今現在でも、少しずつ変化しているんです。あのやり方は良い、となれば、近くのお寺さんにも波及していくことがあります。それが段々に広がって行くこともありますし、またその輪の外から別の良いやり方がもたらされる場合もあります。

各時代の和尚の努力の結晶が、今現在の葬儀の違いにつながっているわけです。深い。重い。

なぜ長々こんな話を書いたかと言いますと、今日のお役僧でお手伝いした葬儀の次第が、正太寺とはだいぶ違ったからです。私は戸惑うばかり。全体の流れは同じはずなので、多分ここはこういう理由で変更されているから、ここは変更がないだろう、という具合に推測しながら、合わせるので精一杯でした。本来でしたら進行上のお手伝いもするべきなのですが、とてもそんな余裕はなく。10も年上の先輩に全てお任せするという醜態でした。

その先輩はそんなことではどうこういう方ではありませんし、こちらの教区は役割をがっちり決めてあるので、下手に動かないほうがいいという噂も聞いたことがあります。が、それでも、私としては情けない限り。開式前になぜ簡単にでも打ち合わせをしなかったのかと悔やまれました。

完全に油断していました。多少の違いはあっても、なんとかなるだろうと、それなりに経験も積んできたし、と。

しかし、ほんの少しの違いがあるだけて、体かこんなにも動かなくなるとは。自分の推測に自信が持てないために、お手伝いができないのです。先のことがわかっていなければ出来ない事ですからね。なんとも情けない気持ちで、帰路に着いたのでした。

あー、切ない。今度は、もっと慎重に行こう。必ずや。