書き続ける!住職の平常心日記

静岡県にある曹洞宗のお寺、正太寺の住職が物欲との戦いを公開します。

儀式を儀式として、行う必要性

仕事納めの式典を、お隣の愛知県県庁では行わないようになるそうです。(中日新聞http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20071218/CK2007121802072956.html)静岡県はどうしてるのかな。公式サイトを眺めてみましたが、どこに書いてあるのか想像もつかなかったのですぐに断念してしまいました。


中学生の頃は、始業式とか、終業式とか、やらんでもいいのにと感じていました。この時間があれば他にやれることがいっぱいあるのに、と。移動の時間、整列の時間、訓示の時間、そしてまた教室まで移動して。もったいないなぁ、と。


高校生になると、あまり感じなくなりました。さすがに義務教育9年間で慣らされたのでしょうか。どうこう意見を持った記憶がありません。


大学は、入学式は出ましたが、それ以降はこれといって全体で集まる行事自体がありませんでしたし、卒業式に至っては修行のために總持寺に上山した直後ぐらいで、気がついたら終わっていました。上山が早かった者は、先輩和尚の引率で卒業式に出席したらしいですけれど。


そして修行です。もうね、普通の人が考える法要なんて、意味を感じられないと思うのですよ。読んでるお経は意味不明。だから進行も分からない。何のために行っているかが、さっぱり分からない。そういう法要を、ずっとやってるわけです。それに加えて、日常の修行である坐禅、掃除、もろもろ。それらも型にはまった形で毎日毎日延々と繰り返されるわけです。


形は違いますけれど、中学の頃、散々疑問に感じていた儀式というものを、ここまで徹底的に行うと、考え方も変わってきます。


意味のある儀式は、ちゃんとやらなきゃいかんのです。


意味が分からないのは、分かろうとしないだけです。知ろうと思えば何でも知れる時代です。法要にはすべて意味があります。お経だってお釈迦様のお説教が元になっている物がほとんどですから、ありがたい意味があるのです。(これについては、檀家さんの前で読むときは和訓のお経をお唱えした方が、意味も通じて、仏教を理解してもらいやすいと最近強く考えています。)


始業式なんて、分かろうとしなくたって意味が分かるじゃないですか。校長先生の話を聞くのですよ。そして学期の始まりの節目を付けるのですよ。メリハリを付けるわけですよ。なんとなく学期が始まってしまうより、メリハリがついた方が、その後の勉学にも身が入りやすいというものです。


そして話は振り出しに戻って、仕事納め。仕事始めの式典は引き続き行うようですから、メリハリは一応、付くものと思います。しかし、仕事納めに知事の話を聞くのも大切です。自分の職場のトップがどんな考えを持っているのか知るチャンスです。話を聞くというのは大事なのです。姿を見ながらですから、話の中身だけでなく、態度なども参考に出来ます。今話している言葉が、本意なのか、建前なのか。選挙を戦う知事ですから、話はうまいはずです。しかし選挙の時とは違いますから、素の姿が出やすそうです。これは、後から


一年の締めくくりに際し、トップがどんな話をするのか。たいして面白くない話であれば、そういう人であると思って、さほど間違いはないと思われます。私ならぜひ聞いてみたいです。


儀式の本意がちゃんと分かれば、おいそれと止められる儀式というのは、あまりないように思います。そりゃ、そういう理屈でいろんな儀式を型どおりに行い続けていたら、仕事が回らなくなるのも分かります。しかし、仕事納めは、年に一度、しかも特別な時期の儀式じゃないですか。何も止めなくてもと思います。


しかし実際には、続けている都道府県の方がすでに少数派のようですね。寂しいなぁ。