書き続ける!住職の平常心日記

静岡県にある曹洞宗のお寺、正太寺の住職が物欲との戦いを公開します。

曹洞宗でお念仏?

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曹洞宗のお檀家さんでも、お念仏をお唱えします。曹洞宗は元々出家主義。大本山總持寺開山瑩山さまのご活躍の影響で少し薄らいだとはいえ、自らの力で仏法を会得するという基本方針には変わり有りません。ですから、未来仏である阿弥陀様におすがりする「南無阿弥陀仏」など、他力本願の考え方は曹洞宗には存在しません。


そんな曹洞宗のお檀家さんでも、入出の場合は、お葬式やお年忌があるたびに、欠かさず南無阿弥陀仏とお唱えします。


先日お会いした方に、その点がどうしても不思議で仕方ないと言われました。我々としてもいろいろ考えはありまして、地域によっては「南無釈迦牟尼仏」とお唱えするように変えてしまったところもあるそうです。ゴロが合わずに難しいでしょうに。


正太寺としては今のところそこまでする気はなく、また、お念仏をお唱えすること自体を止めもしません。むしろどんどんやってください、と。


なぜ曹洞宗のお檀家なのにお念仏をお唱えするのかというと、理屈は簡単で、普通の人の間に一番広まったのが、南無阿弥陀仏というお念仏だったからです。分かりやすく、難しい理屈も知らなくて良い。ただひたすらにお唱えすれば未来世に現れる阿弥陀様が救ってくださるという、ものすごく簡単に言えばそういう教えですから。(他宗派の教えですので、私の理解はこれぐらいというだけで、正しい解説ではないかもしれません)


曹洞宗は武士に好まれた宗派でして、一般民衆とはまた違った層に浸透していました。それが江戸幕府による檀家制度の構築の過程で、おそらく信仰している宗派とは関係無しに、近くのお寺に所属することになったのではないでしょうか。ですから心は浄土系の宗派、所属は曹洞宗、というのもあり得たはずです。それが今も引きずられていて、お念仏が脈々と受け継がれていると。


では、お念仏がいけないかというと、そんなはずはありません。例え曹洞宗の宗旨に合致せずとも、仏様を想い念じ名前をお唱えするという行為は、仏教に帰依する姿勢を如実に表しています。我々曹洞宗の僧侶はただ、曹洞宗の教えを伝えていくことに集中すればいいのだと思います。


坐禅の後に南無阿弥陀仏とお唱えしたって良いじゃないですか。それで坐禅の修行がなかったことになるわけではありません。仏様の名前をお唱えするときには、きっと仏様のお姿を想像しているはず。その行いを想像しているはず。それを繰り返していけば、頭の中には「正しい行い」というものがしっかりとインプットされて、無意識にそこから外れないように自らを戒めるようになるでしょう。


それは、仏の行を身につけていく、曹洞宗の修行と言えると思います。


お唱えする対象が過去の仏様でも未来の仏様でも良いんですよ。現在・過去・未来、そんな仕切り分けを気にかけるようなちっぽけな教えではないんです。どんどんお唱えしようじゃないですか。(もちろん曹洞宗としての教えも何かある毎に説き示して差し上げなくてはなりません)