書き続ける!住職の平常心日記

静岡県にある曹洞宗のお寺、正太寺の住職が物欲との戦いを公開します。

人権擁護についての熱い議論

年に一度の宗務所人権擁護推進委員会が開催されました。静岡第4宗務所の場合は、宗務所職員全員と、各教区教区長(5人)、それから宗務所布教師・宗務所講師・青少年教化委員の各部会から代表者一名ずつの計17名が、人権擁護推進委員に任命されています。都合により欠席された方をのぞいて、今日、15名の出席を得て開催されました。


だいたいは人権擁護推進主事さんから先に行われた主事研修会や私も勉強させていただいた管区研修会、それから本庁の動向の報告、また各教区で開催される人権学習会の進め方についての提案を行う会です。実際の学習は各教区で、もしくは個人単位で各種研修会に参加するということになっています。


年に一回現職研修会という、55歳未満の曹洞宗僧侶は参加を義務づけられた研修会においても人権学習がありますし、教区でも年に一回は人権学習会が行われます。たいていの僧侶は年に二回は人権学習に参加しているわけです。


ただ、そのたった2回の機会も、参加するのが億劫だったり、面倒だったり、まだやるのか、と感じるのが実情かも知れません。私はそう感じている方でした。全体的な内容に変化が無く、「それは前回も前々回も取り上げた内容だし」と思うことが多かったためです。常に意識しているために継続して学習を続けることが大切だとは思っていても、学習意欲がわくのはやはり新鮮な知識に対してなのですよ。


それがここ最近は、取り上げる事例も多彩になり、また管区での研修会では六曜や清めの塩の話も出たりと、いつも気になっていることを真正面から取り上げることも増えてきました。誤解を生む表現かもしれませんが、ちょっと楽しいのですよ。良い意味で興味を持てるんです。私が以前から悶々と感じていた、事例の取り上げ方の下手くそ感もだいぶ薄れてきました。


六曜に代表される迷信や、清めの塩の誤解など、大勢(たいせい)に流されやすい心が、部落差別や人種差別・男女差別などなどの差別を拡大させていくひとつの大きな要因です。深く考えず、みんながそう言うから、昔からそう言うから、長老がそう言うから、正しいことだと認識するという思考停止状態が、差別をうむ温床になっているのです。その辺りにしっかりとスポットライトを当てている最近の人権学習の進め方は、私向きです。(今年の学習テーマもその辺りです)


曹洞宗がいわゆる「町田発言」以来人権問題を直視し始めて30年近くになります。その間にどういう学習を進めてきたかは私はまだ知りません。宗務所には過去に制作された学習用ビデオがあるということで、10何本かあるそれに目を通せばだいたいの流れは掴めるという話を聞きましたが、今はそんな時間もなく過ごしています。30分だったとしても300分以上。最近は一日のんびり過ごした記憶無いですからね・・・さくらんぼは狩りましたが、のんびりしてはないです。


ともかく。
人権侵害を起こす差別とは、曹洞宗が実質的に中心課題としてきたと思われる部落問題だけではなくて、人種も性差も貧富も年齢も職業もさまざまあるわけです。それについて、こういう事象があった、原因はこういうことで、どうのこうの、という学習の仕方では、なんだかいつも身に覚えのないことで責められている気持ちになるというものです。


差別事象を起こした原因ではなくて、人はなぜ差別をするのか、ということを解決する方が、とても宗教的だと思いませんか?その意味で、「大勢に流されやすい心」というものにスポットを当てた今年のテーマは期待できます。
「それは差別だからやっちゃいかんよ」と言われて素直に心から受け入れられる人というのはなかなかいないでしょう。遠回りして、例えば友引に「友を引く」なんて意味はなくて、元々の意味はこうでこうで、ほらこんなふうに正しいと思っていたことでも間違ってることがたくさんあるよ、というところから始めて、自然に「あっ、これは差別なんだ。」と自力で気づくようにしないといけないと思うのです。じゃないと、いつまでたっても何が差別で何が差別でないかを認識できません。自分でその都度慎重に考えなくちゃならないのです。それを身につけなくては、差別は無くならないのです。


修行と同じなんですよね。だからそのための方法は、我々僧侶は豊富に持っているはずなのです。次のステップはそれを活かすようにすることでしょうか。


人は比べる生き物です。本能であるのかもしれません。そういう心の動きは、防げないのかもしれません。でも、防げなくても、表さないように気をつけることは出来ます。


自分がされてイヤなことは相手にもしない。たったそれだけのことなんですけどね。どうやらそれは難しいことみたいです。