書き続ける!住職の平常心日記

静岡県にある曹洞宗のお寺、正太寺の住職が物欲との戦いを公開します。

お経より会話、な、一日。

おときに回る軒数に対して、所要時間が不自然に多かった一日でした。午前と午後、どちらかがやけに時間がかかることはあっても、一日を通してその状況が続くのは、珍しいことです。


つまり、しゃべりすぎ。


昨年の「暮れどき」は住職が不調のために私が1人で回らせて頂いて、そんな都合でお経を読み終えたらすぐに次のお宅へ移動する、という事態になっていました。


お盆のおとき(家施餓鬼)の際には、例年のように住職と2人体制で臨みましたので、おしゃべりの時間も通常通り取れたのですが、まだ昨年会話が不十分であった余波が残っているのか、それとも私がしゃべりたそうな顔をしているのか。


原因は複数ありそうですが、ともかくもお経を読んでいる時間よりも遙かに長い時間を、おしゃべりに費やしてしまいました。


行程の中の一軒だけでやけにしゃべりすぎた、ということは珍しくないのですが、今日はどのお宅でもなんだかしゃべりすぎていた気がします。どうしたことでしょう。


いずれにせよ、おしゃべりが長くなれば長くなるだけ、膝への負担も増してきます。今すでにかなり痛い状態になっています。なぜか膝裏まで痛くなってきました。


明日は少し気をつけて、あまりしゃべりすぎないように心がけようと思います。もちろん、状況に応じてですけどね。


おときに回る目的は、お経を勤めて各家のご先祖様に年越しのご挨拶をすることだけではありません。お檀家さんそれぞれと会話を持ち、自然な会話の中にも仏教の考え方を伝えていく、大事な目的があるのです。


私としては、なんならおしゃべりだけを目的にお檀家さん宅を回りたいぐらいなのです。さすがにそれだと、来なくて良いよ、というお宅ばかりになりそうですけれど。


ま、でも、バランスが大切ですね。今日は少しおしゃべりに偏りが出てしまいました。明日はちゃんと修正しましょう。


あ、ちなみに、正太寺のある地域においての「おとき」という表現は、他の地域で一般的な、いわゆる食事を意味する言葉では無く、月経のようにお檀家さん宅でのお勤めをさすことの方が多いです。昔はそういう機会はたいてい食事付きだったことから、お経も含めておときと呼んでいたとかいないとか、諸説ございます。