書き続ける!住職の平常心日記

静岡県にある曹洞宗のお寺、正太寺の住職が物欲との戦いを公開します。

個性を重んじるか、和を重んじるか

日本人は何かと和を重んじて、西洋では個を重んじると、よく比較をされます。私も以前は、みんな右へ倣えの日本人の一般的な考え方に反発を覚えたものです。


でも。違うんですよ。本当の「和を重んじる」というのは。なぜに日本人は和を重んじるか。それはおそらく、仏教思想の影響だと思います。聖徳太子の時代から日本人の思想感に影響を与えてきた仏教です。日本人の生活の何事にも仏教の教えが生きています。


日本人の美徳として重んじられている「和」、それは仏教でもやはり重んじられている「和合」の教えの影響があると、私は考えます。でも、昨今の日本人の考える「和」は、誰かが言ったことに従う、なんとなく周りの雰囲気に合わせる、つまるところ、自分の考えを持たずに人任せにする、そういう「和」だと思います。仏教の「和合」は、そんな生やさしいものではありません。


仏教にとって、個性を重んじると言うのは、当たり前のことです。その前提の上で、お互いに意見をぶつけ合いながら、共に修行に励む。簡単に言えばそれが「和合」です。相手の個性を尊重するから、相手の意見にも耳を傾ける。自分の個性もあるから、自分の意見もはっきりと述べる。そして議論をして、進むべき方向を定めていく。
(修行における和合は、集団生活を乱さないようにという戒めと、議論を繰り返すうちに、自と他が同一であることを見いだすための方策という、二つの側面があると、私は捉えています。)


右へ倣えなどではなく、ガチンコの議論をして自分たちの道を見つけていくのが、日本人の美徳とする「和」ではないのでしょうか。


その結果が、よそと同じであっても構わないのです。いかに議論をしてきたかが重要で、結果もまた、次の結果への過程でしかないのですから。


和を重んじるために、個性を重んじた議論をしましょう。もとより、相手がどんな立場であれ、年下であれ、相手を認め、尊重しなければ、本当の議論は成り立ちません。仏教の根付いた国、日本に生まれたことを、心から喜べるように。