書き続ける!住職の平常心日記

静岡県にある曹洞宗のお寺、正太寺の住職が物欲との戦いを公開します。

冷たい目をしてるのかもしれない時

時折、お腹がすいたので何か食べ物をいただきたいと、おみえになる方がいます。お寺ですから、何かしらもらえるだろうと思うのかもしれませんが、正太寺では物はなにも差し上げません。追い返すわけではありませんが、なぜ出来ないかを納得していただけるまで説明しています。


信者さんから施しを受けて生きていくのが僧侶の姿です。その代わりに、一所懸命仏法を説き、たくさんの人が仏様になれるように努力をするんです。


一般の人は、生活するために一所懸命働いています。誰かから何かをいただくことがあったら、お返しをするのが礼儀です。もらってそれで終わりということはないわけです。


お寺はそうやって一所懸命働いて得た収入を施していただくことで成り立っていて、その期待に応えるために我々は必死にがんばっているんです。
だから、お腹がすいたからなにかくださいと言われても、はいそうですかと差し上げるわけにはいきません。


その人に働く意志や、なんとかしなければという必死な思いが見て取れるならば、相談に乗ることも出来ますし、援助することも考えます。でも、ただもらうことのみが目的と感じたならば、その意思を確認した上で、差し上げられない旨を説明するのです。


気になるのは、その説明の最中、私はとても冷たい目をしていそうなことです。理由は自分でもはっきり分かりませんが、一所懸命仕事をしているお檀家さんの姿と比べてしまっているのかもしれません。



納得していただけるまで説明はしますが、こちらとしてはなんとなく追い返したような感触が残ってしまって、後味が悪いです。
なぜ一口分のご飯さえも差し上げられないのか、何か食べ物を渡してそれでよしにすればすぐに済むことなのに、なぜ時間をかけてとことん説明するのか、そのあたりに気がついてもらえたなら、食べ物の代わりに仏様の教えを施したことになるのかなと、そう思い巡らせて私は後味の悪さを封じ込めています。


その人が、そういう状況になったのには、自分の責任以外にもいろんな理由があるのでしょう。それを考えると切なくなります。そして、食べ物をもらおうとするのではなく、今の状況から抜け出したいと意志を示してくれたなら、お手伝いを出来るのにと、さらに切なくなるのです。