書き続ける!住職の平常心日記

静岡県にある曹洞宗のお寺、正太寺の住職が物欲との戦いを公開します。

おとき予定コース終了

この冬のおときも無事に終了しました。予備日である週末2日間に10軒ほどありますが、ひとまずここで気持ちを切り替え、以降、おとき期間中に放置していた事務仕事に取りかかります。


駐車場の草刈りもまだ2面残っていますが、年内には無理かも。やっちゃいたいんですけれど。庭師さんもそろそろ年末掃除の連絡がある頃だから、駐車場についてはやらずにおいてもらおうと思います。自分でやることで半日分ぐらい節約できたかなぁ。宗務所勤務もあってなかなか自分で出来無かったことですが、退職から一年経って大分リズムが出来てきたので、平面の草刈りは自分でやっていきたいです。山の斜面は無理だぁ・・・


おときの間にも檀家さんと境内整備に毎年かかる費用について雑談に紛れ込ませて相談をしたり反応をうかがったりしましたが、なかなか妙案はでません。費用の上限を決めて、庭師さんにはその範囲で収まるようにセーブしてもらうしかないかなと考えています。来年末に、支払いが出来無いのでは庭師さんにも申し訳ないですから。


提示できる金額は、今年の支払額の半額近くなので、かなり仕事をはしょってもらわなくてはなりません。山は一度荒らしちゃうと元に戻すのは大変ですし、悩ましいところです。荒れて放置を100年ぐらいしてもかまわないと腹をくくればやすく上がりますが、ミヤマツツジはもう見れなくなっちゃうと思います。


はぁ、悩ましい。

膝と腰に疲れの蓄積が見られます

昨日から膝には痛みが常駐。腰は外れそうな変な感覚。いずれも疲れが溜まってくると発生する、私なりの疲れのバロメーターにもなっている症状です。


膝はおときによるもの。腰はお稲荷様のお祭りに伴って物をいろいろ運んだりしたのが原因でしょう。いずれも時とともに治っていくものです。


たぶんね。


おそらくね。


治ってください。


腰の痛みはまだまだ軽いものです。寝ていても痛いような状態ではないので、この程度がすぐ治らない何てことはさすがにないでしょう。


膝は2週間ぐらい痛みを引きずってもおかしくないですけど。


そんな体調ではありますが、今日もしんどいながらも楽しくおときをお勤めできました。明日、半日で予定コースは終了です。週末に移動した軒数もさほど多くはないので、気持ちも少し楽になると思います。


年越し準備に取りかかるまでの数日の間にやるべきことが結構あるので、そろそろ片づける順番を考えておいた方がいいかな。事務メインの生活に戻りますよ。

お稲荷様のお祭り

正太寺の鎮守様であるお稲荷様の、年に一度のお祭りでした。春の弘法様のお祭りがお花がメインなのに対して、お稲荷様のお祭りは、炊き出しによる昼食接待がメインです。

最近では炊き出しをする風景も珍しいものになりました。20年ほど前には葬儀があると当然のこととして炊き出しをして参列者をもてなしたものです。我々僧侶も葬儀後にはその昼食を振る舞っていただいて、良い具合に煮詰まった味噌汁を美味しくいただいた事がつい昨日のことのように思い出されます。濃い味にに煮付けられた油揚も、美味しかったなぁ。

漁師町なので味付けは基本的に濃いのです。正太寺の食事は今も昔も薄味なので、たまに濃い味のものを食べるとすごいんですよ。薄味の食事をしているのでなくても、あの炊き出しのご飯は全てが美味しいですけどね。

ただ、大変な負担があったことも確か。今となってはもう記憶もおぼろげですが、あるお宅が助六寿司を炊き出しのご飯の代わりに出したところ、それ以降のお葬式では例外なく助六寿司が出されるようになりました。みんな大変だったから、辞めたかったんですね、きっと。仕事を休んでいた方も多かったと思います。喪家は仕事を休む大義名分がありますが、近隣のお宅の場合は忌引きで休むわけにはいかないですから。さらに昔なら、「おお、大変だな。手伝ってこいよ。」というような感じで休みをもらえる事があったと思うんですけれど。

いろんな思いの交錯する炊き出しですが、ほぼ正太寺のわがままとして続けています。年によって多少のばらつきがあるとは言え、不動のメニューといつもの味という組み合わせはお檀家さんにとっても心の味となっていることと思います。きっと。私の年に一度のこの日の食事が楽しみでしょうがありません。

その期待に応えるべく、というのがまず一つの理由。そしてもう一つ。技能としての炊き出しの継承です。大人数の食事を用意するというのは、まずは材料の分量からして想像がつきません。100人前の炊き出しに何度か参加することで、その規模感を覚えてもらって、いざ炊き出しが必要な時に先頭に立って引っ張っていってもらえるように、という思いがあります。

東海地震が叫ばれ出してからずいぶん経ちますが、前回の地震から予定周期を等に超えているはの事実です。今こうして日記を書いている瞬間にも、大地震が発生しておかしくありません。無事に生き残れば、その後も生き延びなくてはなりません。その時に炊き出しの技能は大変有効でしょう。

支援物資として食材が届いても、それが調理できないのであれば役に立ちません。大人数分の調理に勘所がわかる人が多ければ、それだけ助かるというものです。

そんな思いもあって、できるだけお祭りを継続していきたいと思っています。お檀家さんの支えがとても重要です。これからもよろしくお願いします。

準備も順調

昨日の午後からに引き続き今日は朝から明日のお祭りの準備。妻は、新調したガス釜の試し炊き。一番少なくても一升からしか炊けないので消費するのは大変です。そこまで考えて用意周到に取りかかる妻。さすがです。


午後からも引き続き妻の出番。明日のお昼ご飯の炊き出しに備えて婦人部の役員さん5名で下準備に来てくれました。食器を始め調理に必要なものを倉庫から運び、洗い。お昼はまだ暖かかったのですが段々と冷たくなる中での準備でした。皆さんに手伝ってもらいながら準備を進めていくのが妻の今日一番の仕事。


15時過ぎにだいたい整って、短い時間ですがお茶をしてもらって解散となりました。お疲れさまでした。


私は途中で抜けて、坂東霊場参りについて旅行社さんと打ち合わせ。概算ではありますが見積もりがでたので、参加予定の皆さんにお知らせが送れます。おときが終わってからなのでしばらくは頭の中で文面を考えておこうと思います。楽しみに待っていてくれてるでしょうか。第1回参加の皆さん、みんなで行けると良いなぁ。

とりあえず、今日までは順調な日々

庭師代の支払いにいろいろ定期を崩した以外は。

暮れのおときはここまでのところ、順調。ペースは上がらず、おかげで足の痛みのペースが上がっていますが、住職とお喋りしたいニーズは満たしていると自負しています。

妻にはそんなニーズないと言われました。

ですよねー

午後の部を終えてまだ16時だったので、明後日のお稲荷さんのお祭りに向けて、稲荷殿の掃除を敢行。いつもなら前日に行うのですが、前々日に取り掛かってみました。

数年前に稲荷殿にくっついている倉庫の入り口をアルミサッシに変えて以来、稲荷殿内部の汚れ方もだいぶマシになり、水雑巾での掃除が必須ではなくなりました。今ではダスキンと掃除機で掃除ができています。数年に一度は水雑巾で祭壇を拭いた方が良さそうですが、今年はまだダスキンで。

何者かのフンがついているのが気になります。一昨年までは無かったのです。昨年突然登場。犯人は未だ不明。鳥でも迷い込んだのかと探すのですが、1年も稲荷殿の中に入ったままで生き延びられるはずもありません。ということは、お賽銭を入れるように開いている正面の隙間から出入りしているのだろうか。3cm四方の隙間しかないですけども。

そんな謎の生物のフンらしきものもダスキンで擦り落として、最大限にきれいになったと思います。これ以上は畳替えしたりしなきゃ無理。古く見えるのにどこを触ってもホコリがつかないんだから合格でしょう。

ホコリはつかないけど、ダスキンでは取れなかった何かがつく可能性はあります。へへ。

明日はそのほか諸々の準備をして、当日に備えます。当日は、炊き出しのご飯が食べられます。今から楽しみです。

活字中毒の話

おときに回りながらいろんなお話を聞かせてもらいますが、今日は活字中毒の話になりました。


本を読むだけではあきたらず、身の回りのあらゆる文字、たとえばお風呂で湯船に浸かりながらシャンプーの背面の成分とか使い方を毎日読んでしまうような状態を、私の中では活字中毒と位置付けています。


いろいろレベルがあるんでしょうけど。


かくいう私もそういうところがあって、また子どもたちも同じような状態なので、興味深く情報交換をしました。有意義な時間でした。


小学6年生の時、日没後の学校帰りにその日図書室で借りた本を読みながら歩いていると、ふいにスピーカー音声で話しかけられたことを思い出しました。


「そこの少年、前を向いてある来なさい」


びっくりして振り返ると、パトカーがすぐそばにいました。ふらふらはしていなかったと思うのですが。


車道と歩道との境は白線があるだけの片側一車線道路。田舎道よろしく、反対側には歩道のない細い道でしたので、ぱっと見で危なく見えたのでしょう。


毎日のことでしたので私は危ないという意識もありませんでした。本に下ろした視線の端で白線を見ながら、まっすぐ歩いていたつもりでした。


自分で運転をするようになって、ようやくあの時のお巡りさんの気持ちが分かりました。いくらまっすぐ歩いていても、本を読みながら歩いている子がいたら、横を通るときはすごく怖い。あの時声をかけてくれたお巡りさん、ありがとう。


一番の親友と競うようにして本を借りては読むという日々を繰り返していました。アルセーヌ・ルパンシリーズ、おもしろかったなぁ。ルパン三世も知っていましたから、絶対に人を殺さないというスタンスはとても意外でした。超人だけども深手を負うこともあり、毎日ハラハラワクワクしながら読んでいました。


あの頃から、何をしているときも文字を探して読む癖が付いてしまいました。良いのか悪いのか。今のところ、悪いことにつながった経験はないですけれど。


懐かしい思い出を、結局口に出しはせずに、次のお宅へと向かいました。私がしゃべりまくってもいけませんのでね。再び活字中毒のお話をすることになったならば、その時には。


こんな具合で、たのしみもいっぱいの暮れのおときです。

とっても暖かい日。その裏に潜む生活の危機。

今日は朝からとても暖かでした。肩の力、背中の力も自然な状態に戻り、リラックスした状態でおときに回ることができました。会話の話題も自然と気温のことになります。みんな喜んでます。

ただ、入出特産の花、「コデマリ」にとっては、寒い期間も必要です。真冬になればハウスの中で暖房を効かせて育てるのですが、一度ちゃんと寒い季節を経ないとよくないんだそうです。具体的にどう影響があるのかは分かりませんが、育てている農家の方、皆さんが言うのですから間違いありません。

それを思うと素直に喜べません。入出の漁師にとって主要な獲物であるアサリが、近年不漁が続いています。生計を立てられる状態ではありません。そこで知り合いを頼りに日雇いの仕事をしたり、畑があればそちらに精を出したりしてなんとか凌いでいます。あまりに長い不漁期間に、八方塞がりの状態。

その中で、コデマリ栽培は生活を支える大きな仕事となっています。JAとぴあ浜松館内でのコデマリ生産量は、2016年8月現在とちょっと情報が古いものの、なんと、日本一、シェア80%。その中でも入出の存在感は非常に大きいのです。

ですので、「いつも通りの」気候であるというのは、入出の民にとって生活に直結します。冬に暖かい日は貴重ですが、あまり暖かすぎるのも困るのです。

そんなコデマリも、栽培をするのはかなり大変なため(毎日面倒を見なきゃならない)、辞める方も少しずつ出てきています。高齢化が一番の原因ですね。大変な仕事のため後継者もなかなか難しい。どんな仕事も大変ですが、定期的に休みが取れて、収入が安定しているという点で比べれば、会社勤めが一番ですから。コデマリも畑を広げていけば大きな収入につなげることもできるはずですが、その分人を雇ったりするようになると、うまく経営しないと大変さが増すだけで収入は変わらなかったりもするのでしょう。

お寺から見ても、会社勤めの安定感は魅力的です。生涯安定ではないのはよく分かっています。それでも、自分たちよりは安定しているように見えるんです。隣の芝は青いというだけなら良いんですけどね。

僧侶の生活は、信者によって支えられていました。毎日の食事は朝の托鉢で賄い、着るものはお布施で賄う(布を施すという字の通り)。一切の生産をせず、修行に励み、教えを説く。見返りは求めない、その姿に信者の側から自発的に生活に必要なものが差し出される。それが僧侶の本来の生き方なのです。厳しい自然環境の中であれば、信者さんたちが困窮すれば僧侶が真っ先に死ぬのでしょう。そんな状況でも、人々の幸せを願って仏の教えを説くのが僧侶なのです。

間違いなく尊敬されるに決まってます。

でも今の僧侶は、後継者の確保が重要課題。そのために、家族を持ち、養う必要が出てしまいました。そうして、家族の生活を安定させることが上位の優先度を持つようになってしまったために、本来雲や水のように自由であるはずの僧侶の行動を制限することにつながってしまったのです。

ということは、家族の生活が安定すれば、僧侶は再び活動の幅を広げることができるようになります。普通のお寺の収入だけではそれはあり得ないので、二進も三進もいかないそのはざまで多くの僧侶が苦しんでいるのですが、ここにもし、会社勤めのような安定感を得る方法があれば、本来のポテンシャルを発揮できる僧侶がもっと増えることでしょう。

独力で収入を増やせる僧侶は、僧侶としての資質として何か違ったものを感じてしまうのが難しいところ。あくまでもその僧侶、そして所属するお寺を思う誰かによる支えでなくてはならないと思います。そのためには尊敬される僧侶としての実績が必要でしょうし、実績のためには安定した収入が必要な現実があり、安定した収入得るには実績が必要で…見事な無限ループです。

以上のように、大半のお寺はすでに破綻するのが確定しているんです。正太寺もその中に含まれます。今のままでは。

だから、金儲けに走る僧侶がいるとして、それはある意味で正しいのです。僧侶としての信念を曲げてでも、お寺を次代につなげていくために必要なことをしている可能性があるのです。お寺にお金を入れるために必死になっている僧侶を見かけたら、話を聞いて、賛同できれば応援してあげてください。それが大きな支えになります。

私もなんとかしなくちゃな。このままだと、来年の庭師さんの請求すら払えない…