書き続ける!住職の平常心日記

静岡県にある曹洞宗のお寺、正太寺の住職が物欲との戦いを公開します。

まだまだだなぁ

今日は新居町のお寺さんでお役僧に呼ばれて行ってきました。同じ宗派とはいえ、ところ変われば葬儀のやり方も少し変わります。典型的なのは鳴らしものを使う場面。正太寺の近隣では途中で2回続けて鳴らす場面があるのですが、新居町では途中と最後に鳴らします。
なぜかと聞かれて的確に答えるのは私にはまだ難しいのですが、葬儀式本来の意味を重視するか、現代の葬儀の行う状況に合わせて少し変化させるか、の違いではないかと思っています。


たとえば、本来であれば葬儀式の途中で棺に火をくべるのですが、現代ではそれを行うことは現実的ではありませんので、真似っこだけで済ませています。
葬儀の次第が作られた時代と現代では、葬儀を行う環境がそれだけ違っているのですから、やり方もそれにあわせて変化して当然です。ですから、その土地その土地での状況に合わせて、微妙にやり方が違うのですよ。
また、導師をつとめるご住職の動きに合わせてのこちらの動作というのもあります。もちろんそれは、導師によって微妙に変化があるわけです。


ですから、今日のように正太寺とは少しだけ違うやり方の葬儀にお役僧として呼ばれると、緊張します。正太寺とその近隣のお寺さんでの葬儀であれば細かなところまで理解していますから自信を持って臨めますし、どのご住職がどういう動きをするかもほぼ把握していますから、気も楽でする。でも今日の場合は、あの場面はどうだったかなぁ、と先のパターンをいくつも考えながら、それに加えて導師の動きが次にどうなるかも予測しなくてはなりません。


決まりきった儀式を営んでいるように見えて、現場の僧侶はその都度その都度、状況に合わせて対応しています。そしてそれが、あたかも決まった動きであるように見えなくてはなりません。そうでなければ、ドタバタした葬儀になってしまいます。それではいけません。
それがさらに緊張を呼び込むわけです。心臓の小さい私には大変な所です。


というわけで、今日も反省点がいくつも。
一番若い私が動きべきところで動けなかった場面もありました。まだまだです。
まだまだなのです。うーむ。