書き続ける!住職の平常心日記

静岡県にある曹洞宗のお寺、正太寺の住職が物欲との戦いを公開します。

もっと、もっと

趣味と実益が兼ねられて、モバイルデバイスをいくつか所持する生活をしております、副住職です。


でも、もっと良い使い方はないものかと、毎日毎日考える日々。考えるのを止めてもすぐに実害が出る訳ではありませんが、それはもったいない。型にはまった使い方しか出来なくなれば、そのうちにデバイスの進化について行けなくなってしまいます。


思うに、私がパソコンに詳しくなったのは、昔パソコンは思ったことを全然実現してくれなかったから。それなのにあれやこれやとひねくり回していると、何か出来そうな気にさせてくれたから。


機械のおかげで、今ではさほど労せずに思ったことが実現出来るようになってしまっています。勉強せずとも、使える時代がだいぶ近づいてきました。


とはいえ、普通には出来無い事を何とか実現しようと努力してきたから、今の私がある訳です。たぶん、パソコンが世の中に浸透していく過程で、「詳しい人」として頼られた人はみんな、そうだったんじゃないかなぁ。


目的があって、それを実現するために、学びながら試行錯誤を繰り返す。パソコンは割合と、そういう自然な学習をしやすい機械だったんだと思います。出来そうで、出来なくて、でも出来てる人もいたから。悔しいじゃ無いですか、あの人に出来て、自分に出来ないなんて。でなければ無精な私がこんな詳しくなれたはずはありません。


最近のモバイルデバイスは大変よく出来ています。私の好きなiPhoneも、iPadも。ノートPCも処理速度が上がり、バッテリーも十分に持つようになり、軽くなってかっこよくもなった。


何もせずとも日常の業務には支障なく役立てることが出来ます。


でも、そこで満足してしまうと、進歩が無い。より仕事に活かすには、より生活に活かすには、それを考え続けるから、新しい使い方が生まれ、ここがこう出来ればこう使えるのに!という欲求が生まれます。


仏教に於いて欲求は制御する対象ですが、技術の進歩に於いて欲求は母なる存在です。ユーザーの欲求を受けて、メーカーはそれを上回る機能を実装する。


世捨て人たる僧侶であるわけですが、技術の新しい可能性には常に興味をひかれます。それが僧侶の本分に活用できる可能性も存分にあるんですから。


もっと、もっと。デバイスに負けない使い方を追求していく姿勢を、持ち続けたいと思います。


そんな思いにふける、夜長でした。