書き続ける!住職の平常心日記

静岡県にある曹洞宗のお寺、正太寺の住職が物欲との戦いを公開します。

職員会議

宗務所も事務所ですから、職員会議というのがあります。会議がある日に限って他の仕事も忙しい。会議は4時からなのでそれに間に合うように宗務所へ移動。終わって6時半。帰る。


会議の時間と移動の時間がほぼイコールなのがとても無駄な感じです。でもその場にいないと話し合いに参加出来ませんし、今度の予算を決める会合の準備会なので、今日の会議の話の内容が分からないのもなにかと都合が悪いし。
なんだかんだ言いながらもその場に行けば仕事に集中したがる私なのでした。


その場その場で集中するのが一番じゃないですかねぇ。
文脈むちゃくちゃですが。


今日は疲れているせいか文章がまともじゃないので読解力を最大限に高めてお読みください。


そう、最近学力低下が叫ばれていますが、日本語がまともに読めなかったらそりゃ学力も低下しますよ。何事も基本は国語。正確に問題文を読めなければ回答なんて出来ませんし、頭の中に浮かんだ回答を表現するのも言葉なんですよ。表現手段としては身振り手振りでもなんでもいいんですが、テストはたいてい紙に書くわけで、その時は言葉なんですよ。


言葉は生き物ですから、その時代その時代ではやりの表現があったり、徐々に言葉の意味が変わっていったりもします。言葉遊びも楽しいものです。
でも、それをするのはちゃんと言語が話せる人であるべきで、いつでも瞬間で万人に通じる言葉に切り替えられる人がそれをしないと、好き勝手に乱れるだけになってしまいます。それでも言語の最低限の機能が果たせなくなってしまう。


つまりは意思の疎通が出来なくなる、と。
ある1つの単語の意味の捉え方が世代間で異なっていたら、会話は通じなくなります。それがもっと広範囲に発生するとしたら。


そういう危険性を認識した上で、ギリギリのラインで言葉遊びを楽しむのであれば、それはそれで良いのでしょうけれど。


というわけで、私はもっと国語の授業をみっちりやるべきだと思いますよ。それが出来て初めて他の教科の授業も理解できるんですから。それから、親が変な言葉を話さないこと。子どもは親をはじめとした大人の真似をすることで学ぶのです。今の子どもたちの現状は、大人世界の生き写し。
テレビやインターネットで何でも見れる時代ですからね、その向こう側にいる人たちにも、節度を期待したいものです。まあ、まずは一番身近な人から心がけなくてはいけませんね。



勢いでいろいろ書きましたが、要は日本語をちゃんとしゃべれて書ける事って、生きて行くうえでとっても大事だよ、ということです。
日本語はたぶん、世界でも有数の繊細な言語なのではないでしょうか。この言葉を使えることを、もっと誇らしげにして良いと思いますよ。