書き続ける!住職の平常心日記

静岡県にある曹洞宗のお寺、正太寺の住職が物欲との戦いを公開します。

子どもたちの友人に対する意識

たけしの日本教育白書2007の冒頭部分を見ていました。なかなか興味深いテーマなのですべて見ていたいのですが、5時間の拘束は無理です。その冒頭で、小学校高学年から中学生にかけての子どもたちが、親や教師、友人を信用できるかという話題を扱っていました。


親や教師を信用できるかどうかなんて、親や教師のありがたさが分からない年齢の時に尋ねて、それについて議論してもあまり意味はないと思うのですが、友人に対しての考え方というのはその子の今後の人生に大きな影響を持ちますから、興味を持って見ていました。

    • 相談事は友人にはしない(誰かにしゃべられたら困る)
    • 卒業したら別の学校だから、それまでの関係
    • 別の学校に行った子とはしゃべらない


などなど、私も年寄りの仲間入りしたのかなと思うほどに「最近の若い者は」と考えてしまうような意見が多数でした。


こういう子たちに対しても「どうなってるんだ」と思いますし、その子を育てた親に対しても同じく、またその親を育てた親に対しても同じく、否定的な感情を持ってしまいます。親の教育の成果なのか、社会や環境が与えた影響なのか。もうね、この子たちが大人になって、はたしてどんな社会を形成していくのだろうかと不安です。その社会に私の世代もいずれは飲み込まれていくわけで、それもまた心配です。


目の前にいる肉親に対してよりも、自分のブログにコメントをくれる人に心を開くという意見もありました。親には言えないけど友人には言える話というのはあるでしょう。でも、その対象が会ったこともない、ネット上の人間というのが、私には信じられません。


私もブログを持っていますし、このぼけ日記も今時だと広義のブログということになるでしょう。ですから、そこで起こる意見の交換などで、コメントをいただいた相手が血の通った人間であることも分かっていますし、ネットは仮想世界ではなく、現実世界そのものだというのも理解しています(むしろ私はそのことを多くの人に分かってもらいたいと思っています)


それでも、実際に会って時を共に過ごさなければ、その人の本当の「人となり」を知ることは出来ません。それなのに、肉親に対してよりも心を開くというのは、私には考えられないことです。どうなってるんでしょうか。


友人関係が壊れてしまったら、それはもうリセットボタンを押して、新しい友人関係を作った方が楽だし簡単だという意見の中学3年生。リセットできない人生を生きているという実感が、きっと無いのでしょうね。そしてリセット出来ないことの楽しみを、まだ知らないのでしょうね。そう信じたいです。いつか気づいてくれると思いたいです。番組制作スタッフのやらせだったとしたらどれほど安堵できるでしょうか。


学校から宗教が取り除かれて長い時が経ちますが、そろそろ少しは、取り入れても良いのではと思います。仏教も神道も、キリスト教だって、日本人の道徳観にはもう全部含まれてるんですよ。だからそれに触れないように学校教育を行ったら、道徳なんて身につくわけ無いのですよ。いろんな宗教が遠慮もなくごった煮されている日本人の宗教観は、ひとつの観念に縛られないと考えれば素晴らしい特質です。それを活かして、いろんな宗教の良いところをどんどん取り入れた教育を、行ってもらいたいです。


生き物は必ず死を迎えるということ。
やり直しは出来ないこと。
自分は生かされているのだということ。


せめてこれぐらいは、学校で、家庭で、たたき込んでもらいたいです。もちろんそのための協力は惜しみません。いくらでも出かけていきますよ。お寺にも、どんどん来て欲しいです。いつでも、遠慮無く。


お寺の三門は、閉まることはありません。いつでも開かれています。それは、時を選ばず、いつでもいらっしゃいということです。お待ちしてます。