書き続ける!住職の平常心日記

静岡県にある曹洞宗のお寺、正太寺の住職が物欲との戦いを公開します。

お戒名を考えるのに半日がかり

私は比較的お戒名を考えるのに時間がかかりません。故人の印象や、ご遺族から聞き取ったお話、それに故人のお名前などを頭に浮かべつつ、熟語集(のようなもの)を眺めながら、私なりの想いを込めたお戒名を考えるのですが、意外に時間がかからないんです。

お戒名の漢字のならびにも一応決まり事もありまして、ただこれは命名を制限するというよりは、この決まりに従うと耳障りが良くなるとか、そういう効果があるというものです。漢字文化由来のものですから、当然中国に伝来してからの後付けの決まりです。どこまで守るかは、師匠の立場となる住職の見識に任されています。

私は最近は極力守るようにしています。お戒名を読み上げた時の印象も大事ですからね。

そんなお戒名考えタイム。今日は午後の時間丸々要しました。こういう僧侶になってほしい、ひいてはこういう仏様になってくださいますように、という思いを込めるのですが、そのためにふさわしい字の並びが見つからなくて。

夕方になってようやくこれはというお戒名が決められました。明日はもうお通夜。日中は法事もあるので葬儀までに残された準備時間はさほど多くはありません。和尚によっては徹夜で考えることもあると聞きますから、これでも私はスムーズに決められた方ではありますが、これ以上時間がかかると綱渡りの気持ちになるところでした。

お戒名が決まると、お葬式に使うお位牌や血脈、初七日から登場する7枚塔婆などの準備に取り掛かれます。時間に追われると墨書する際にミスが多くなり、消しゴムで消すわけにはいかないので最初から書き直しをしているうちに、さらに時間が足りなくなっていくという悪循環に陥ります。

そういう意味でも、多少なりともゆとりのある精神状態でそれらの書き物に取りかかれたのはありがたかったです。最も、いくら時間がかかったといっても、子供の名前を考えるよりは時間がかかっていませんね。

お戒名の話をする際に、私はよく、一通り私の込めた気持ちを説明した後に、今の話は忘れてしまって構いませんと言い放ちます。

生まれた時に親がつけてくれた名前と同じで、そこに込められた気持ちを聞く機会はあまりありません。自分の人生を生きる上で、自分の名前の意味などたいしたことではなく、どう生きるかの方がよほど重要で。そして、その生き様に応じて、名前の持つイメージが形作られていきます。

太郎さんという名前の方は日本にたくさんいると思いますが、全く同じイメージを周囲の人から持たれている太郎さんはいないと思います。名前は同じ太郎でも、その生き様がそこには反映されてくるのです。

お戒名も同じで、修行への取り組みや、仏様としてのお姿がそこには反映されるはずです。でも、我々にはそれを見ることは叶いません。ではどうするか。お位牌に書かれたお戒名を見て手を合わせるたびに、どんな仏様になっておいでかとイメージをする。その繰り返しで、お参りをする一人ひとりにとっての、仏様としてのお姿が形作られていくのです。そのお姿が、お戒名のイメージへと反映されていきます。

私が込めた気持ち、意味合い、そんなものを覚えていなくても、毎日手を合わせるたびに、自然とそれらが形作られていくのです。

だから、しょっちゅうお参りすることが大事。離れて暮らしているならば、手を合わせてお参りするだけでも良いんです。お戒名をすぐに思い出せるように、メモしておくと良いですね。

私がお戒名の話を丁寧にするのは、お戒名の字の構成がどういう仕組みでできているかをちゃんと知っておいてもらうと、その後に自分でイメージを膨らませるときに、明後日の方向へイメージを膨らませことを無くすためです。漢字は表意文字。一文字一文字から意味合いがイメージできますが、そのイメージの持ち方は、お戒名の仕組みに則ったものであって欲しいのです。

そんなわけですので、毎度ちょっと長い私の話ですが、その時には我慢してお付き合いください。

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