書き続ける!住職の平常心日記

静岡県にある曹洞宗のお寺、正太寺の住職が物欲との戦いを公開します。

時には気持ちが折れそうになる

年回法要などの法事の際には、極力法話をするようにしています。雨雲の都合とかで縮めたり、省いたりということもありますし、コロナ禍の最初のうちは、人が集まっている時間を減らしたくて法話をしないことが続いたりもしました。

でも、曹洞宗でよく使うお経には、聞いているだけで理解できるお経がありません。飽和をしなければ、仏教とはどういうものなのかというとても大事なところが伝わらず、先祖供養の手段としてのみ大事にされることなってしまいます。

そうは言っても、私の法話は自己流です。いろんな文章を読んで、講演を聞いて、自分の法話に取り入れてきてつもりですが、普通の世界ならばあるはずの、仲間からの指摘を受ける機会が全くありませんでした。

檀家さんの評価だって、どれだけバイアスをかけてくれているか計りかねます。

そもそも、菩提寺の住職に面と向かって「話がつまらん」と言ってくれる人は滅多にいないでしょう。長い、というのは聞きますが。

長く感じるということは、つまらないということだなと、そう理解して奮起したりもしますが、檀家さんの評価を感じられるのは、法話をしているまさにその瞬間の、檀家さんの顔の向きであったり、視線であったり、そういう細かなところのみです。

この日記が毎日面白い内容なら、私の法話は、きっと毎回面白いんだと思いますよ。でもきっとそうではない。この日記が毎日面白くないから。

面白いというか、興味を持ってもらえるようにと心がけてはいますが、時には言いたいことだけを書き殴っちゃいもしますけどね。

法話があってもなくても、法要の全てを終えると、皆さん満足げに帰られます。内容を考えて、当日緊張してお腹をゆるくして、小さなお子さんがいるからこんな話をどうだろう、若い世代が多いからこんな話をどうだろうと、その場で手持ちの法話の中から選んでお話をして。

それらの取り組みがあってもなくても結果が変わらない=先祖供養の手段でしかない、という現実を突きつけられると、時には気持ちが凹んでしまいます。

先祖供養は大事ですよ。大事だからやってるんです。でも、なぜ大事なのか。

気になると思うんですよ。精神面から実利まで色々あるから書かないですけど。気になると思うんですよ。

どうしたら食いついてもらえるかな。どうしたら毎回楽しみにしてもらえるかな。

凹んだ時は、良い評価をもらえた時のことを思い出して余韻に浸ることにしています。「また話を楽しみにしてるでね」「娘が和尚さん面白いって言ってたよ」そういう言葉が支えです。じゃんじゃん浴びせてください。よろしくお願いします。

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