正太寺のお通夜では、長めのお経を一つ読み、その後、お焼香をしてもらってる間にもう一つお経を読みます。これで25分ほどが経過し、現在はここで閉式となっています。
以前はお経の後に、曹洞宗の葬儀はどういったものであるかをお話ししていました。説明という名を借りた、法話です。僧侶になるための儀式をして、その後に葬送の儀式を行う。その辺りのことをなるべく簡潔にお話ししていました。
しかし、5分10分を要してしまいます。新型コロナウィルスの感染が再び拡大してきたため、なるべく同じ場所に留まる時間を少なくしようと考えていますので、その5分10分を削り、お経の時間はお通夜として最低限必要な時間としています。
お通夜の形態も、一般に案内する開式時刻よりも前に近親者のみで儀式を行い、会葬者はお焼香とご挨拶をしてすぐに会場を離れられるようにしています。浜松市内では一般的な形ですが、湖西市ではコロナ禍で止むを得ず始まった形態です。ただ、隣接の浜松市で一般的な形態のため、お檀家さんも抵抗感なく受け入れてくださいました。
そのようにして色々対策はしているものの、仏教を知ってもらう機会としても今まで貴重だったお通夜と葬儀の場が、儀式以外に時間を割くことができず、なんとも残念なことになっています。
じゃあどうしたらいいのかなと、考えるわけです。読むお経を現代語に近づけて、聞いているだけで理解できるようにしたら、法話の時間が無くても伝えられるものがあるのでは、とか。お経を思い切ってお焼香の5分10分ぐらいで終わるようにして、法話の時間をたっぷりとって、法話を聞いた功徳でお通夜のご回向としようとか。
お経は今読んでいるものは実はなかなか平易な文章で、ただ古い日本語というだけなので、現代語に近づけるのは比較的容易。と思う。聞いてもらいたいことがたくさん書いてあるので、お通夜のたびにそれを読んで聞いてもらうというのは理想的です。自分で考えた法話より、お釈迦様の言葉が元になっているお経そのままの方が伝わりすやいと思われるのは、自分の力量の無さが嘆かわしいと同時に、お釈迦様の言葉のありがたさを再認識できます。お経を読むたびにそうした気持ちになれるのは、常に初心に帰れている気がして悪いものではありません。
色々試したいのですが、やることがフラフラと変わるのはよろしくないと思うし、さあ、どうしたものか。
今晩、お通夜をお勤めしてそうしたことを改めて考えるきっかけとなりました。故人を思いつつ、お通夜に合わせて夜通して考えてみようかな。徹夜しちゃダメですけど。
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