書き続ける!住職の平常心日記

静岡県にある曹洞宗のお寺、正太寺の住職が物欲との戦いを公開します。

中学校の書類に埋もれて

昨日の入学式でもらってきた、中学校の書類。ちょっと多すぎです。目を通すだけで良いもの、リアクションのいるもの、色々です。教科書の名前を書くのは流石に本人が自分でやってくれますから、小学校よりは楽になっている、のかなぁ。

それだけ書類をもらっても、まだよく分からない点がいくつかあります。そのうちに説明がされるのか、先生が忘れているだけなのか。ちょっとしたことが分からないんですよね。小学校の入学式直後にも感じましたが、情報が足りないというか、疑問に思う点についてフォローがない状態。多分、先生方からすれば、当たり前のことなのでしょう。そして、新入生とその家族にとっても、そのうちに当たり前のことになってしまって、一年後、新入生のためにこれこれこういう情報を提供してあげたほうがいいという動きにつながっていかないんでしょうね。

その一方で、服装に関する規定ははっきりしていて、髪の毛の長さなんかも決められています。そして最終的には、「中学生らしい」服装という言葉で大雑把に表現されていて、考えようによってはその場の解釈で運用変更出来るとも捉えられますが、多くの場合は先生の都合の良いように使われるだけなんじゃないかなぁ。

今40代の私たちが中学生の頃よりは緩くなっていると思いますが、それでもなお、「中学生らし」さとは何だろうと、親の側が考えてしまいます。勉学に集中して取り組んでいたら、髪の毛のことなど疎かになってもおかしくありません。そうなるぐらい取り組んでしまってはいけないのでしょうか。ほどほどにして、集団からはみ出ないようにするのが望ましいのでしょうか。でもそれって、中学生になってまで学校で教えること?小学校で身についていて当たり前のことに思います。

中学生ぐらいの年代が、一番扱いづらなんて言いますけれど、大人側の子どもたちを見る目が、子どもたちが見ている世界の成長に、追いついていないだけなんじゃないかなぁ。そこを経験した人が先生になって、ベテランからもうすぐ定年ぐらいのポジションにいるはずなのに、全然改善されないのは何でだろう。私の考えが甘い?厳しくしないと生徒たちを統制できない?

そもそも先生が統制する必要が、あるのかな。中学では先生だって専門教科に分かれます。小学校とは段違いに専門的なことを先生から学べる場です。それなのに、生活指導なんかに先生の力を割くなんて、勿体無い。小学校6年間で学ぶ力は身についているはずなんだから、出来ていないとしたら親が学ばせる義務を放棄しすぎだったのでしょう。それなら、しっかり家庭で責任をとってもらうべきあって。

中学生の頭の中は、そんなに幼くないですよ。社会に出るためには社会の仕組みをまだまだ勉強しなくてはならない段階にありますが。

ああ、そういえば、社会に出るために必要なITの知識については、子どもたちの方がより早く身につける現実がありますね。先生や親の方が追いつかない。これは実は今まで隠されていた事実が白日の下に晒されただけであって、中学校で現役で勉強をしている子どもたちの能力は、部分的には大人を十分に上回っていてもおかしくないんです。

数学で分からない事を子どもに聞かれて、スッと答えられますか?子どもに負ける部分があるのに、大人の方が全てを上回っているつもりで接するから、軋轢が生まれるんじゃないでしょうか。

いや、まあ、私もまだ第一子が入学したてでこれから初めて中学生の子を持つ親になりますから、全部自分の頃の記憶をもとにした想像です。先生の立場になったこともないですから、そのご苦労も何も全然理解していません。自分の中学時代は当たり前に丸刈りで、制服もバッチリきて、さほど先生に厄介かけるようなこともなかったはずです。しっかりこの独特な中学校社会に丸め込まれて三年間を過ごしました。でも、そんな私でも、「中学生らしい」というものが理解できないんです。大概私の頭の中はずれているので、仕方のないことかもしれませんが…