お寺に生まれてそのまま和尚にまでなってしまうと、この歳でも見送る相手とは何かしらの思い出を持っていることになります。盆暮れにお経に伺えば親しくお話ししてくださいますから、その意味では「親しい知人」と表現できます。
親しい知人が、だいたいひと月に一人は亡くなっていくんです。
お茶をいただきながら、他愛もない会話をするんです。
時には仏教的な話に言及することもありますが、基本的には大上段に構えて仏教の話をするのではなく、なるべく自然に仏教的解釈で会話を進めていくので、私が話すことが仏教まみれだということに気づく方はそう多くないと思います。
お経を読みに来たのか、話をしに来たのか、よく分からなくなることも多々。そうして、お檀家さんと、親しい関係を築いています。築けていると思います。
そうした方々を、今の日本では経験することはないであろうペースで、亡くしていき、自分が導師となって送らなくてはなりません。
副住職の時とは、そこから受けるダメージがかなり増えたように思います。
自己分析によれば、私はかなり楽観的な性格であり、物事をあまり深く考えず、自分の周りには悪い人なんていないと思い込んで暮らしている、ちょっとおめでたい人間です。死と向き合って深く考え込むようなタイプではありません。私がお釈迦様や道元禅師の立場であったとしたら、そこまで思い悩むことはなかったかもしれません。
そして、このお気楽な性格を支えているのは、感情の沈むこみが実はかなり激しく、そこに陥らないために安全マージンをたくさんとっていることだと、分析しています。逃げ足が速いんです。
こうやって暮らすと楽しいよ、お気楽だよ、そんなことをふんわりと説いて回るのが私に向いている役目であって、葬儀におけるどの場面も、多分私には向いていないんです。残念なことにね。
そう簡単に泣くことはなくなりました。でも時折、押し寄せてくることもあります。いつかこれを乗り越えて、誰かのために話ができたらいいなと、思います。