書き続ける!住職の平常心日記

静岡県にある曹洞宗のお寺、正太寺の住職が物欲との戦いを公開します。

訃報から枕経までの精神状態

赤裸々に。

最近では亡くなられると直ちにお寺へ連絡してくださる方も。ありがたいことです。以前は自宅に帰ってきて枕飾りが整ってからのお電話が当たり前だと思っていました。それぐらい自然なことでした。一番に連絡が行くのは、葬儀屋さん。そこで何をしたら良いかをアドバイスしてもらって動き出す、そんな感じでした。

ただ、葬儀の中心は喪主さんであり、儀式の執行者は寺院です。葬儀屋さんはお寺さんとの間に入り、弔問客との間に入り、細かなところへ気を配ってくださる存在ですが、亡くなってしまった!どうしよう!という時に一番に頭に浮かぶのはお寺でありたいな、と思っています。

でも、お寺が電話を受けて、何を言うかというと、「葬儀屋さんを決めてご遺体を自宅へ移してもらって」というぐらいしか言えません。ご遺体の搬送は、業務でなければ(対価が発生しなければ)誰でも行えますので、お寺で車を出して搬送することも不可能ではありません。でも、傷つけないようにご遺体を搬送するとなるとやはり経験が必要で、素人がいきなり葬儀屋さんのように完璧に仕事ができるわけではありません。さらにその後の諸々の処置を考えれば、最初から葬儀屋さんへお願いした方がスムーズです。もちろん無料ではありませんが、十分にメリットがあるでしょう。

となると、じゃあお寺へ最初に電話をするメリットってなんだろう、となるわけです。ほぼ義理しか残らないと思います。だから、枕元が整ってからのお電話であっても、不思議だとも思いません。むしろ、自然であると。

たった一つメリットがあるとすれば、和尚を拘束できることです。訃報を受けたあと、枕飾りが整ってもう一度連絡が入るまでの間に何をしているかというと、待機です。よほどの事情がなければ外へは出ません。出先にいるのであれば、なるべく早くお寺へ戻るように行動します。

枕飾りが整って、身内もみんな揃って、それからお寺へ連絡したら、和尚は浜松にいた、なんてことになると、戻ってきて支度をして枕経へ来るまでに、少なく見積もっても1時間以上かかります。その間に葬儀の日程調整だけでもできれば葬儀屋さんと先に打ち合わせを進められますが、そうでなければ待ちぼうけです。

実際こういうことはよくあります。私も宗務所へ勤めている時には、当然ながら浜松市内の宗務所にいる時が多かったですから、枕経をお待たせすることもありました。師匠がお寺にいれば代わりに行ってもらえましたけれど、そうでないことも多いです。

そんなわけで、ただでさえゴタゴタしがちに葬儀の準備を、少しでもスムーズにするために、葬儀屋さんとお寺と、どちらが先になっても構いませんので、お寺へも早めに連絡を入れておくと待ちぼうけの時間を減らせますよ、と。いろんなことがストレスに感じる時ですから、減らせるストレスは減らしましょう、と。でも、大切な方が亡くなったという瞬間にこんなこと、考えられないですよね。病院からはすぐにご遺体の搬送の手続きをとるように言われるという話を聞くので(実際の場面には出くわしていないので正確なことはわかりません。教えてください。)、自然と葬儀屋さんへ電話をすることになるでしょうね。私だってそうなると思います。

そしてここからが今日の日記のタイトルの話。亡くなった直後に訃報を受けてから、枕経へ行くまで。時には数時間、半日以上時間が空くことがあります。でも、どの程度の時間がかかるかは、正直予想がつきません。そろそろ電話が来るかなぁ、と思ってからさらに1、2時間、ということもあります。解剖するような事態になると長いですね。お身内からそうした話を伺っていれば、踏まえて構えることもできますけれど。

私の場合、その数時間、心はずっと待ってます。お寺から出ないものの業務は続行します。でも心は完全に故人のところへ行ってしまいます。精神的には通常と全然違うものになりますし、大抵の場合お腹がゆるくなって体にも表れてきます。辛い時間帯です。しょうがないですけどね、肝っ玉小さいので。

修行を積んで住職にまでなった僧侶のはずなのに、こんなに簡単に精神がメタメタになるというのはとても大きな声では言えませんが、そこまで含めて自分の体と心ということを認識するのもまた大切なことです。人間の身である以上、逃れられないものですからね。「まさに捨つべき罪悪の物」とされるだけのことはあります。

お腹がゆるくならなければさほどのことでもないんですけどね。この敏感なお腹がうらめしいです。