書き続ける!住職の平常心日記

静岡県にある曹洞宗のお寺、正太寺の住職が物欲との戦いを公開します。

導師は葬儀で泣いてもいいのか

少し前に葬儀屋さんがTwitterで、葬儀社の職員が葬儀で泣いてしまっていいのかどうかという話題を振ってらっしゃいました。それに伴って当然僧侶もどうしたものかという話題にも発展するわけですが。

この話題はいつの時代にも繰り返されてきた話だと思います。葬儀社という存在もかなり昔からありますし、僧侶が在家信者の葬儀に関わるようになってからの歴史も長いです。その間に、おそらく度々議論に上っていたのではないでしょうか。それぐらい普遍的な出来事だからです。

それがなぜ結論が出るようで出ないまま来ているかというと、鯔のつまり、儀式の進行役である人間が泣いてちゃ先に進まんだろうが、という視点があります。どんなに悲しい葬儀の場にも、時間は流れています。火葬場の予約もありますから、葬儀予定時間を大幅にオーバーするようなことになると、問題が出てきます。

悲しむのは遺族と会葬者であって、進行役の立場の人間は、そこに押し流されることなく儀式を進めていかなくてはなりません。そのことについては100%同意です。それでも議論になるのは、やはり人間の情ですよ。泣ける時は泣けるんですよ。そのことまでも否定していいものか、というわけです。

いやいや、もっともっと深いところが根底にあるのかもしれませんけどね。当事者になりがちな私の意見としては、その程度の浅いところです。

人前で泣きたくないという当たり前の思いもあります。最近では言葉に詰まるぐらいどうってことなくなりましたが。最後まで喋れればオッケーぐらいに私の中の基準は緩んでます。そのせいで、したくもないと思っていたもらい泣きをしてしまった方がいらしたら申し訳ないです。でも感情を全て押し殺すことが仏の道ではありませんしね。泣きたい時は泣きましょう。そういう気持ちの中で、精一杯儀式も進めていく。それでいいではないか、という意見に現時点ではたどり着いています。

幸い、私は葬儀社ではなく、職員もいません。弟子が現れればそれなりの指導が必要となりますが、この辺の考え方については指導の名の下に強制するよりも、自分の中でたどり着いた方がいいので、普遍的な回答を求める必要はありません。葬儀社さんの場合はそうもいかず、会社としてある程度の方針を決めておかないといけないでしょうから、大変ですよね。

控室に入り、喪主さんとお話ししたのち、法会に着替え、お袈裟をつける。搭袈裟偈を読むことで心が定まれば、あとはその心に従うのみです。自分がその時にこれが一番という方法で、お釈迦様から連なる仏法を示すべく、使える手はなんでも使う。それが意識的であれ無意識的であれ、自分の行いに自信を持って。

そんな心持ちで、本日もお通夜へ向かいます。行ってきます。