書き続ける!住職の平常心日記

静岡県にある曹洞宗のお寺、正太寺の住職が物欲との戦いを公開します。

毎彼岸恒例観音懺法

こんなタイトルにするととても軽いものになってしまいますけれど、観音懺法という儀式はとてもとても重要度の高い儀式なのです。それを毎彼岸、組寺で会場を移しながら、お勤めしています。

この春からとうとう我が正太寺のご隠居が、観音懺法のメンバーからも引退しました。組寺の中で若さんが登場し、人数も足りるようになったからというのもありますし、お拝の多い儀式ですので、70半ばに差し掛かろうという年齢ではさすがにきつくなってきたというのもあります。

正直うらやましい。

しかしこれで、メンバーは六十歳未満で構成されることになりました。前の世代が脈々と続けてきた内容に対して、少し変化を持たせようという意見も出ています。大事な儀式だけれど、司会もいない現状では何をやっているかさっぱり分からない。せっかくの儀式がこれでももったいない。しかし司会に人を当てる余裕も無いから、漢文のところを和文にしようとか、なるべく分かりやすくという方向性を持っています。

ただ、観音懺法は声明の儀式でもあります。朗々と節をつけてお唱えするシーンが大変多くあります。それがまた見せ場でもあるのですが、声明は漢文であることが前提で作られています。和文の声明は曹洞宗には存在していません。他宗の場合は分かりませんが、もしあるのなら参考にさせていただきたい。

つまり、和文にすると、分かりやすくなる代わりに、声明がぐっと減ってしまうんです。それが良いのか悪いのか。今はわかりやすさ優先で和文を増やし、檀家さんからの評判が上向けば、声明の部分をまた復活させていけば良いのかな。興味を持ってもらえれば、漢文の声明でも聞いてもらえるかもしれませんし。今はただ、意味の分からない儀式、しかも長い、という感想しか持ってもらえていないだろうというのが、お寺側の認識です。すぐそばで参列いただいていますから、時間の経過とともにお檀家さんに疲れが出てくるのが伝わってくるんです。これは変えていきたい。楽しいものにはならないでしょうけれど、興味を持ってもらえるものにはしていきたいと思っています。

以前にも書いたと思いますが、仏教というのは、最先端なのです。本来は。知識にしろ、技術にしろ。奈良や京都のお寺なんて、当時の最先端建築技術が用いられているんです。それがいつしか、古い時代のものをありがたく守り続ける代名詞となってしまいました。新しいものに迎合する必要はありませんが、当時そうであったという歴史は、しっかりと頭に置いておきたいと思っています。私が頑張れるのはこういうあたりぐらい。がんばります。