書き続ける!住職の平常心日記

静岡県にある曹洞宗のお寺、正太寺の住職が物欲との戦いを公開します。

友人の厄除け祈祷を

友人から御祈祷を依頼されました。厄除け祈願。

個人的には厄除けを売りにしているお寺はまがいもんだと思っているぐらい「厄年」に関して大人の対応を取れずにいるのですが、依頼があれば受けます。その上で御祈祷の前にも後にも厄年に関する私の見解を話しています。

普通に考えれば、その年になったからよくないことが起こるなんてことはありえないと分かるわけです。当たり前のことです。それでも厄年という考えから脱却できないのは、事実してそのタイミングでよくないことが起こったという話を聞くからです。

これもよく考えれば当たり前のことですが、みんなが似たような生活スタイルで暮らしているわけですから、体に変調をきたす年齢など、似通ってきて当たり前。

色々説明すっ飛ばして、厄年だから体に気をつけろよ、という先人からのアドバイスだと受け止めれば、しっくり来るでしょう。

そしてここまでも、多くの人が知っている話。それでもなお厄除けが必要とされるのは、人の心の弱さと、宗教界のミスリードに他ならないと思っています。

人の心は元来弱いものです。ですから依頼があれば厄除けの御祈祷はしっかりとお勤めします。それで1つ心の重しが取れるのなら、それは間違いなく私の果たすべき役目です。

腹がたつのは、寺社仏閣が率先して厄年だから厄除けしましょう、お祓いしましょうと囃し立てていること。日本においてこれだけ教育レベルが上がったのだから、迷信に分類されかねないあやふやな物言いよりも、体のメンテナンスに気をつけましょう、働きすぎると、かえって長く働けませんよとアドバイスする、それをもっと前面に押し出すべきでしょう。

そもそもですよ。自分の精神と肉体とを徹底的に観察する仏教が、厄年なんて考えを広めていてはいかんでしょう。なぜそうしたことが起こるかを研究して、じゃうどうしたら良いかを人々に示すのが役割のはず。御祈祷やお祓いして大丈夫なわけないじゃないですか。私は御祈祷の後に、これをきっかけに、日々自分の体を見つめて、大事にするようにお願いしていますが、他のお寺でもそういう話してくれているかなぁ。心配です。

平安時代から厄年の考え方はあったという記述も目にしました。千年も誤魔化して放置してるってことですよ、人々の悩み苦しみを。この時期は厄年の話が多くなりますから、会う人会う人にそんな話をしています。みなさんが厄年を気にされて寺社仏閣に頼ることは、なんら悪いことではありません。私はただ、その状況を解決できない、自分を含めた宗教界に腹が立っているだけです。もーう、なんとかならんのか。