書き続ける!住職の平常心日記

静岡県にある曹洞宗のお寺、正太寺の住職が物欲との戦いを公開します。

2018年 年頭のご挨拶

新年あけましておめでとうございます。ご不幸のあったお宅でも、新年はお祝いしたほうがいいのにと考えている住職です。おめでとうございます。

新年を迎えるとは、つまり、大晦日から1日経ったということです。日が変わった。今日だった瞬間が時の流れとともに昨日となり、新しい今日が来た。それだけです。

ただそれだけなのに、たまたま人が作った暦の上で年が改まるからと大げさに祝賀行事を行うのは甚だ無駄の大きい所業だと常々感じておりました。なぜって、お寺の年越しは皆さんから見ても大変忙しく思えるでしょうし、事実大変忙しいからです。温泉宿でのんびり年越しをするというのが若い頃からの私の夢です。

当代の御隠居は、隠居されてからも朝のお勤めにお出ましくださりますから、どうやら隠居したとしてもその夢は叶わないことのようです。大変残念。もっとも、年越しの宿泊は料金も高そうですから、その部分でも夢は叶いそうもありません。

新年早々夢のない話で申し訳ない。

そんな風に考えている私でも、なんだかんだと力を入れて新年を迎える準備をし、今日こうしてその日を例年のごとく迎えているのには、それなりに理由があります。

新年は、目出度いからです。

昔、年齢は数え年で表していました。生まれると一歳。その後は、1月1日が来ると一歳ずつ年をとります。今日この日は、みんなの誕生日だったわけです。その時代に生きたことはありませんので今でいう誕生日のムードだったかは分かりませんけれど、それでも一歳年をとる。年をとるとはどういうことかといえば、一年、無事に暮らせたという証です。

今よりもいろんな場面で致死率の高かった時代。一歳年をとる、年を取れるというのは、今皆さんが感じている以上にありがたいことだったのだと思います。

その気持ちを、改めて今、ありがたく思い直し、新たな年を迎えられたことを大変な喜びとして受け取ることには、大きな意義のあることです。

みなさんそれぞれに新年を迎えるにあたっての喜びを感じていることと思います。その喜びを1日でも長く持っていただいて、張りのある一年を、今年もまた過ごしていただけることを願っています。

正太寺のこの本堂も、展示場や会議室などとしても使っていただけますから、張りのある一年のために活用してください。

さあ、本年も、よろしくお願いします。