書き続ける!住職の平常心日記

静岡県にある曹洞宗のお寺、正太寺の住職が物欲との戦いを公開します。

弱い瞬間

葬儀の際に祭壇に掲げる遺影。家族にとって、一番故人らしい写真を選んで作られます。時には写真嫌いのためにいい写真がなかなかないとかで、用意するのに苦労することもあります。

参列者は遺影を必ず見るでしょうから、家族の思いが一番表れていると感じる存在かもしれません。

そう感じるのは導師も同じこと。今日の葬儀で、ふと遺影に目を向けた瞬間に、故人との思い出が不意に押し寄せてきました。

大抵はお盆のお経の後にお茶をいただいた思い出になるのですが、幼少の頃より近年まで、ずっと相対してきたわけです。30年。副住職になってから数えても20年。短い時間ではありません。

さして重要でもない世間話をしながらお茶をいただいた思い出。さして重要でもないから、話の中身なんて覚えていませんが、重要でも深刻でもないから、お互いに笑顔で話しています。思い出の中のお顔は、常に笑顔。その笑顔が、遺影にあるんです。

葬儀中に思い出が出てきてしまうと、動揺するから私にとってはあまりよくありません。出てきてしまうのは心の作用なので止めようもありませんから、なるべくそこに意識が囚われないように、受け流すようにします。ただ、思い出が濃いほどに、受け流すのが困難になります。

ご家族・友人に比べたら、私との親密度など、大したものではありません。でも、それでも、別れは辛いのです。辛いから、思い出が流れ行くことすらも惜しくて、捕まえておきたくなります。今はそれをやってちゃダメだとわかっていても。

これすらも受け入れて、涙を流しながら、葬儀進行をぐちゃぐちゃにして、それで良しとされるなら、私はもっと楽に生きられるんですけれど。導師としてはそれはやっちゃダメなこと、というのが今の私の考えです。

導く師、ですからね。とはいえ、ちょっと今日は、しんどかったです。