名古屋市内に集結した、東海管区宗務所職員は、お昼の研修会終了とともに、地元へと散っていきました。今回の研修で得られたこと、気づき、そうしたものを持ち帰って、宗務所での各種研修会へと反映されることでしょう。
人権問題というのは同じ事象であっても、繰り返し学習しないと見えてこないものがあります。どんな問題にも、視点の置きどころによって様々な捉え方、考え方、感情の持ち方があるわけで、その視点を持つ人の人生まで関わってくるわけで、講師さんの口から出てくる言葉をそうした前提で捉えて自分の考えとすり合わせていくことで、ようやく身についていくものです。
今日の講師さんもおっしゃっていました。講師さん自身、差別を受ける側の境遇だったのですが、そうは言っても、自分だって他から見たら差別に当たる事や発言をしているかもしれない、と。
常にそういう、自分の身を振り返ることをし続けて、もし相手に差別を受けたとする感情を与えたならば、反省しなくてはならないわけです。
とは言っても。
最近立て続けに発生した、痴漢と言われて逃げて最終的に死んでしまうという事件。たとえ冤罪であっても、当面は推定有罪で警察も社会も対応してしまう問題が指摘され続けていますが、差別というのも受けた側の気持ち次第の部分が無いとも言い切れません。
だって、これは差別だと常識として確立されたもの以外の差別事象が、おそらくあまたあるのですから。誰がどう見ても差別だということなら分かりやすいですが、そうでない可能性もあります。
とはいえ、差別だと感じたら声を上げなくては動き出しませんし、そこまで考えてしまうとかえって声が上げられない人も出てきやしないかと、心配になります。
セクハラについて時々揶揄の表現として使われる、ブサイクがすればセクハラ、ハンサムがすればスキンシップ、なんと事があります。
人権問題が、そんな表現がされることのないように、常に真剣に向き合っていたいと思います。差別って、その人の存在を全否定する場合だって多いんです。僧侶の立場は、そうした人に寄り添う事が第一です。一般の方と同じ程度ではいけないわけです。
まだまだたくさん勉強が必要だと思います。