書き続ける!住職の平常心日記

静岡県にある曹洞宗のお寺、正太寺の住職が物欲との戦いを公開します。

いよいよ引導法語の口語体に挑む

仏教儀式全般の現代語への移行には、諸手を挙げて賛成と言うよりは、どちらかと言えば否定派の立場を取っていますが、そうはいっても漢文のままではせっかく受け継がれてきた仏法が正しく広まらないという現実も有り、最近は法事の回向も現代語で読んでいます。

葬儀については正太寺では相変わらず漢文の書き下し文のような文章のまま。我々はそれで意味が通じますけれど、お檀家さんにとっては、例え丁寧に解説されても耳に残らないだろうと思います。なかなか心に響くところまで、私は演出できません。

現代語、つまり普段話している言葉に変換したらどの程度今までと変わるのか、実験のつもりで回向の現代語化を実践し始めました。そろそろ1年になろうというところですが、そのことについてお檀家さんから何か感想を聞けたことはありません。たぶんみんな、気になっていない。

我々はお経と回向の区別が付きますけど、普通は区別できません。難しいお経の一部分、聞いてたって意味なんか分からない、そうなってしまったら、回向の部分だけ現代語になっていたって、気付かないかもしれませんよね。

なかなか、難しいです。お経を現代語化したとして、それをお経として唱えられるリズムを維持するって、難しいように思います。やってみなきゃ分からないですけどね。

さて、今日は、引導法語のお話。葬儀の最中に導師が故人にたいして、餞別と、導きのために法を説く場面があります。その際の文章を、明日の葬儀では現代語で行うべく、取り組んでいます。

文例集があるんですよ。漢文にせよ、現代語にせよ。それらを元に研究をして、自分なりのものを作っていくんです。私はまだ、文例の大半を残したまま、少しいじるだけの段階ですけれど。

現代語にして最大の問題は、読みながら泣きそうになること。今までの難しい言葉であれば、意味は分かるけれども、感情のコントロールはまだしやすかったです。でも、頭を働かせずとも感情に意味を伝えてしまう現代語は、読んでいて辛いです。

でもそれは、聞いているご遺族にも意味が伝わりやすいということですから、私が何とかして堪えるべき問題です。今夜のお通夜では、事前にお悔やみに伺えなかったものですから棺の側で奥様にご挨拶をして、故人のお顔を見ながら最近の病状を伺っていたのですが、時折震える奥様の声を聞いているだけで、こちらも涙が出そうになってしまいました。

そんな状態なのに、堪えて引導法語が読めるか大変心配です。今夜は少し、寝付きが悪そうですよ。

そうそう。現代語に変換する際に、ですます調は絶対合いませんね。とても冗長に感じてしまいますし、言葉が弱くなってしまうように思います。ちょっとしたことなんですけどね。難しいですね。