書き続ける!住職の平常心日記

静岡県にある曹洞宗のお寺、正太寺の住職が物欲との戦いを公開します。

人権学習現地研修会1日目

人権主事さんが半年ほどにわたって準備を進めてきた現地研修会が、いよいよ当日を迎えました。今回の訪問先は、差別戒名の刻まれた墓石の残る長野県上田市にある解放センター、ならびにそれらの墓石を合祀している長福寺様です。


曹洞宗のみならず、仏教各宗派では、被差別部落の住民に対して差別的な戒名を付けたという歴史があります。江戸期における階級制度に基づく差別なのですが、江戸幕府体制をより堅固に維持するための階級制度に対し、本来であれば異を唱えるべき仏教が、差別戒名を付けることにより体制に与したという忌まわしき歴史です。


これらは日本全国にあったのですが、現在も様々な形で残っています。一番顕著な形で現れるのは、結婚の時。ありとあらゆる手段を用いて、結婚相手の素性を洗い、被差別部落出身であるかどうかを確認し、そうであれば結婚話徹底的にたたきつぶす、ということがたびたび行われています。今も、まだ、です。


地域によってはすでに過去のこととなっている所もあるでしょうが、日本全体で見ればまだまだ、差別が解消されたなどと、とても言えない状況にあります。そうした中で、差別戒名の刻まれた墓石を始め、過去帳なども、戒名の改正を行った後は、破棄したり、埋めたりするのが一般的です。遺族にとって辛い過去です。ご先祖様がどんな気持ちでこんな戒名を付けられたのか、そうしたことを、墓石を見る度に意識せざるを得ません。無かったことにしたい。そう考えるのは、むしろ当然です。


しかし、ここ上田市においては、埋めることなく、合祀するという形で、未だに墓石が残っています。再び繰り返してはいけない過去として、決して忘れることの無いように、という思いからです。


解放センターにて、講師の先生からそうしたことをざっと話していただき、実際に墓石を見学させて頂きました。先生の話によると、わずか10才で亡くなられた幼い娘さんに対しても、下僕を表す「僕」の字が使われ、本来ならば「童女」とる位階が、「僕童女」となっているそうです。10才ですよ。10才。


お子さんがおられる方は、自分のお子さんが10才の時を思い出してみてください。または未来を想像してみてください。その子が急に亡くなってしまったとして、付けられた戒名に(厳密には位階に)下僕の意味の字が入っているのですよ。耐えられますか?


しかもそうした行為を、これは想像ですけれども、時の住職は悪意を持って付けたのではなく、この部落の人間には当然付けるものという意識で、差別を行っていたと思うのです。悪意ある差別ならばまだ是正の方法もあるでしょう。しかしそうではなく、当時の世の中で、それが当然の事と捉えられていた。異を唱えるのは差別される側だけであったと思います。


本人が何か悪いことをしたわけでもなく。ただ、その部落に生まれたためだけに。時の権力者が、自らの権力を安泰に保つために(権力の維持が太平の世の維持に繋がっていたとはいえども)作り上げた階級制度により、あなた方は最下層の身分ですよと決めつけただけのために、死して尚差別され、それが当然のこととされていた。


もの凄く恐ろしいことです。差別する側は、誰もそれを悪いことと思っていないんですよ。それがいかに救いの無いことであるか、少し想像してみるだけで寒気がするほど理解出来ます。


その気持ちを忘れないための人権学習です。過去に起こったことは、気をつければ再来を防げ。しかし、新たに起こる差別は、あの昔と同じように、差別する側は何ら、それが差別であると意識しない可能性が高いのです。差別とはそういうものです。


いかなる時にも、なるべくたくさんの人の気持ちを推察し、決して差別に繋がることの無いように人々を導いていく。それは僧侶の大切な役割です。知らず知らずのうちに差別する側に与することの無いように、常に気を張っていられるように。


そのための人権学習です。
曹洞宗ではおそらく、今後も長きにわたり人権学習を続けていくことでしょう。もしかしたら、ことさらに人権学習という名目でなく、自然な形で身につけることが出来るうまい方法が見つかるかもしれません。その方がよりよいかもしれません。


いずれにせよ、宗教者が差別をすると言うのはもっとも愚劣な行為です。仏教では差別を禁じています。あらゆる人のそばによって立つのが仏教の僧侶です。上から決めつけるのは僧侶ではありません。せめて曹洞宗の僧侶が、差別を行うことが今後無いように、自分がそうした人間にならないように。祈りつつ研鑽を続けたいと思います。