書き続ける!住職の平常心日記

静岡県にある曹洞宗のお寺、正太寺の住職が物欲との戦いを公開します。

また日記のネタを忘れた

子どもを寝付かせる前には覚えていたはずのネタ。寝付かせながら10分ぐらい一緒に寝てしまったら、すっかり忘れてしまいました。なので、別のネタ。仕入れたての新鮮そのもの。


最近、正太寺のお檀家さんのお葬式は、とある仏具屋さんの経営する葬祭ホールで行うことがほとんどなのですが、そこの運営に当たっている葬儀社の社長さんからメールが届きました。いやその、署名欄には何も書いてないのですが、語り口と普段接している時のイメージから、たぶん社長さんだと。


てっきり仏具屋さんの社員だと思っていたのですが、別会社になっていたんですね。しかも社長さんだったとは。今まで大変失礼いたしました。てか、仏具屋さんの社長の息子さん、社員になってるし。えー、どうなってんだ。この辺りの詳細、とても気になります。


会社のブログもあるとのことでしたので、早速さらっと読みました。熟読したい所ですが、今は時間がないのでさらっと。


社長さんの考えでは、宗教の依らない葬儀(直接火葬場で、という形式など)や、家族だけでの葬儀、そうした形で良いと思っているそうです。他の記事には共感する部分が多いのですが、この点だけは、たぶん相容れることはないだろうなと、感じました。


選択肢としてこれらがあることには賛成出来ますし、宗教に依らないで葬儀をするという形も、容認出来ます。宗教とは、死の恐怖からの解放が根っこにありますから、怖くないのであれば宗教に頼る必要はないのですから。なによりも幸せなことです。
ただ、家族だけの葬儀が大規模に流行する事態というのは、避けたいことだと考えています。この形式の場合には我々が導師として儀式を執り行うことも含まれるのですが、宗教者が関わるかどうかは問題ではなくて、「家族だけで」という部分が問題なのです。


表面的な部分では、故人と親しい人たちがお別れをすることが出来ないという問題があります。著名人の葬儀のように、お別れ会を企画して行うという方法もありますが、ご遺体と直接対面出来ないという問題は回避出来ません。


さらに、深層的な部分では、葬儀という儀式を執り行うことで継承されてきた、一家の長としての責任感の減退があります。私は喪主という立場を、その場限りでの役割ではなく、喪主を務めることによって、その後の家族内、親戚内、そして広く社会的にも、それまでとは一段違う責任を担えるようになる立場だと考えています。宗教学の用語を借りて表現すれば、通過儀礼であると思うのです。


葬儀に匹敵するような規模の事業を企画運営する機会は、その他にもあることでしょう。しかし、それらと決定的に違うのは、相手にするのが身内と親族、そして少なからず自分に縁のある人たちばかりであるということです。中でも身内と親族というのは、複雑な事情が絡まり合い、微妙な人間関係であることも多いものです。それらを一時的にせよまとめあげて、つつがなく儀式を執り行うというのは、当事者でなければ分からない苦労があります。


また、人前で話すことに慣れ、喪主挨拶もそつなくこなせる人であっても、親族の前で礼を述べる時にはしどろもどろと言うことも多々あります。まったく別の世界が、そこにあるのです。それを経験し、泥臭くとも乗り越えることによって、一家の長としての責任を負い、また、親戚からも、周囲からも、その責を負うにふさわしいと認められるのです。(核家族であっても、一家の長は存在します。)


その機会は、悲しみの中、厳粛な雰囲気で執行される葬儀を除いては、存在しません。


まあこれは、私の考えですから、他に様々な考え方があるのも当然です。同じ人の考えでも、共感出来る部分、疑問を感じる部分、多々あって当然です。私もこの考えを人に強制するつもりはありません。ただ、どちらがよいかと尋ねられたら、そうやって答えるのみです。


それにしても、長く日記を書いていますが、葬儀に関してのこうした想いを書くというのは、初めてではないでしょうか。良い機会を頂きました。感謝です。