書き続ける!住職の平常心日記

静岡県にある曹洞宗のお寺、正太寺の住職が物欲との戦いを公開します。

親戚に不幸がありました

92才のおばあちゃん。先代住職の弟の奥さんが、亡くなられました。母の叔母にあたります。私から数えると少し遠くなりますが、お檀家でもあるので、おときのたびにたくさんお話をした記憶があります。


先月に体調を崩していたものの、今月に入ってからは元気にしているという話を聞いた矢先の出来事でした。大変驚きました。


昼過ぎに第一報が入り、その後枕経の準備が整った連絡を受けて、枕経に赴き、葬儀日程の細部を決めました。親戚ですから普段お檀家さんと話す以外のこと、葬儀屋さんとの打ち合わせにも少し加わりました。


葬儀屋さん曰く、親戚がお寺さんだなんて、何でも聞けてこれ以上なく心強いはず、と。でも実際はそんなこともないんじゃないかと思います。親戚と言うだけでお寺にいる人間と同じ扱いを受けたり、仏事に関しては何でも知っていると思われたり、親戚だからと言うだけで、こうしなくてはというプレッシャーを感じていたかも知れません。


それこそおばあさんは、時の住職の弟の妻として、苦労もあったことでしょう。心強くとも、迷惑なことの方が多かったかも知れません。お寺って、難しい存在です。


辺りがすっかり暗くなってからお寺に帰り着き、娘をお風呂に入れて、日曜日のボランティアイベントに使う書類やらなにやらを整えていたら、もう23時半。さすがに疲れました。葬儀が日曜になったので、このイベントも欠席しなくてはなりません。今回はなかなか集中して準備を進めてこられたのに、ここに来て欠席はとても残念でなりませんが、仕方ありません。方や年に一度の行事、方や一生に一度の行事です。


身近な人が亡くなるたびに、自分の存在意義について考え込んでしまいます。僧侶は、生と死について、何も出来ません。医者ならば、死期をのばすことが出来ます。警察ならば人を守ることが出来ます。消防士ならば人を窮地から救い出すことが出来ます。でも僧侶は、ただただ、当たり前のことを当たり前に説くことしかできません。


直接人を助けたいという思いと、お釈迦様の教えによって人は救われるのだという確信とが、ゆらゆら、ゆらゆらと、目の前で交錯するのです。確信なのに、揺らぐのです。それはまだ本当の確信ではないと言うことなのか、人とはそういうものなのか。


全ての存在は、生まれて、死ぬ。でもまだ私の心は、迷ってる。