書き続ける!住職の平常心日記

静岡県にある曹洞宗のお寺、正太寺の住職が物欲との戦いを公開します。

なぜか眼医者に行くのを忘れそうになる

先月ぐらいから眼医者の予約の日に限ってその日の予定をあまり確認しないことが続いています。結果として予約をすっぽかしたことはないのですが、なんだかいつもひやひや。

 


普段なら前日には予定を確認して備えをするのに、予約の日の前日はそれをしないのです。そして当日も意識で見ることはなく、たまたま何かの拍子に目に入ってびっくりするわけです。

 


Apple Watchを常につけているのですが、文字盤のタイプをApple Watchがうまい具合にそのときに必要な情報を見せてくれるものにしてあるのですが、これが気が利きすぎて夕方の予定ならばお昼頃にならないと予定を出してくれないんです。しかも、それより手前に予定があると当然そちらが目立つように出るわけです。

 


結構気づかないものなんですよ。

 


予定を常時表示しておくモードは直近の一つしか見せてくれないので、結果としている同じことになります。眼医者しか予定のない日なら朝から表示されるのでそういうときにはメリット出ます。でも色々適当に見繕って表示してもらった方が普段は便利。文字盤は今のまま変えたくないです。

 


結局のところ、意識して前日に予定を確認するようにすることが大切となるわけですが、実はそれだけでは不足で、前日に確認しているのに当日お昼頃にはすっかり忘れていてやたら慌てるなんてことも先月はありました。午後からの仕事の進め方をガラッと変えなくてはならなくなるのでワタワタします。

 


予定をすっぽかさないためにApple Watchを常時身につけているのにそれだけでは不足だと言うでしょうか。自分の脳みそが心配になります。確実に予定を把握し続ける方法、ないかなぁ。切実です。

 


ちなみに今日も眼医者さんへ行ってきたのですが、昨日は認識していたのに、今朝は忘れていて、お昼前になんとか思い出したという具合です。誰でもこんなものでしょうか?もうちょっと安心して暮らしたいです。

ハードドライブ救助隊

ハードディスクドライブ。Macの世界だとハードドライブと表現することが多いように思います。違いは無いです。呼び方の問題。略称はHDDが標準でしょう。

おそらく10年以上にわたって稼働していたサーバーが息絶えてそろそろ半年になるでしょうか。ようやく中に格納されていたハードドライブを取り出し、データの拾い出しを始めました。症状としては電源を入れても起動処理が一切始まりません。マザーボードが壊れたと考えていたので、ハードドライブの中身は無事であると予測はつけていました。だから半年も放置していたんですけれど。

大事なデータはすでにクラウドストレージ管理へ移行していましたので、サーバーが動かなくてもすぐにどうこうは無かったのです。ただ、大容量のドライブがいつでもアクセスできる場所にないというのは時に不便でした。今朝、いわゆるNASと呼ばれるものを注文したので、それに合わせてデータを救い出してNASへと移行するべく、動き出したという塩梅。

移行というか。注文したNASはガワだけで、中にハードドライブが入っていません。今までサーバーで使っていたものをそのまま格納して使う計画なのですが、その前にデータを移動させて、まっさらな状態にしておかなくてはならないのです。

しておかなくてもおそらくなんの支障もなく稼働ができる見込みはあるのですが、その後の細かなトラブルを回避するためには、最初にまっさらにしておくことはとても大切です。必要なデータを全て別のハードドライブへコピーしたら、元のハードドライブはまっさらにします。NASが到着したら組み込んで、改めてデータをコピーして出来上がり。

でもこのハードドライブも使用年数としてはそこそこになりますので、いずれ買い替えが必要になるでしょう。今はだいぶお安いですからさほどの心配はしていませんが、それでもなるべく出費は抑えたいので、なるべく長い間元気で頑張ってほしいものです。

サーバー自体は購入時に確か10万円はしなかったと思います。よく頑張ってくれました。ありがとう。改めて電源を入れてみてもやっぱりうんともすんとも言わないのでこれでお別れです。寂しいですが、本当に今までありがとう。

久しぶりに暑さにやられた

法事の後のお墓経。あれが原因だったんだと思いますが、午後から半日、活動不能に陥りました。暑さにやられたんだと思います。日傘をさしていたんですけれどねぇ。車に乗る時との履き分けが面倒で、最近ではすっかり雪駄や下駄を履かず、革靴ばかり履いてお墓へも行くのですが、その革靴が熱せられた足まで焼かれているように熱くなるという日差しの中では、私の体は耐えられなかったようです。

問題なく勤め終えたと思っていたのですが、エアコンで冷やしてもなかなか体が楽にならず、結局半日寝て過ごすことになってしまいました。元気が回復してきたのは20時過ぎぐらいからでしょうか。エアコンの入っている部屋にいるはずなのに、外気温が下がるのに合わせて回復している感じでなんとも不思議です。

エアコンの効きが弱いわけではないんですよ。妻からは「子どもたちが暑さに弱くなってしまわないか」と心配されるぐらいには快適な室温になっています。室温が27度から29度ぐらい。湿度は60%を切るぐらい。ただ、今から思えば、一度暑さに負けた体を元に戻すには、25度程度まで冷やして、さらには保冷剤などで脇の下なんかも冷やすべきだったんだな、と。

日頃から暑さに弱くなってしまったことを自覚して、意識しながら行動しているにも関わらず、こうした事態になると冷静に判断して行動することが出来なくなってしまう、という見事な事例です。症状が軽いから時間とともに回復していますが、ひどくなった状態では自然回復など望めませんからね。皆さんも、本人のいう「大丈夫」は信用せず、徹底的に冷やしてあげてください。

これは流石に電気代がかかり過ぎるだろうからやったことがないので推測に過ぎないのですが、薄着をせず、せいぜい長袖Tシャツと長ズボンぐらいの服装で、部屋を20度程度の室温に保っていた方が、毎日元気に過ごせるのではないかという思いがあります。快適に過ごせる季節って、それぐらいの気温でしょう。服装も薄着をしているわけじゃありません。そこへ合わせて室温を調整した方が、体にはきっと良いんじゃないかと思うんです。

夜寝るときにいくらエアコンを使っても、25度を下回ることはないでしょう。多分室温28度ぐらいで、湿度がある程度下がっていれば人間は快適に感じられるんです。でも、28度って、実際には暑いんですよね。夜間に気温が25度を下回らないと熱帯夜と言われるんです。寝苦しい夜なのですよ。湿度とのバランスで快適に感じるだけで、体は完全な休息状態に入れていないんじゃないかと思うんです。

でも実際に試すには一人暮らしじゃなきゃ無理だよなぁ。家族の理解は得られそうもないし。翌日外に出た時の反動もすごそうですしね。ただ、夜間にしっかり回復できていれば、最終的にはその反動があったとしても体は元気を保てるのでは、と推測しています。

実験したいなぁ。夏休みの自由研究で、子どもたちの共同研究って事でやらないかな。一人は25度以下の室温で寝る。一人は28度ぐらいで寝る。毎日寝る前に、元気に過ごせたかの判定を自分でして、

って、主観でしか判定ができないから、無理か。人体実験みたいになってるし。こういう時、どんな手法を取れば良いんでしょうね。同じ問題集を解き続けて集中力の差を推し量るとか?

もしかしたらすでにもうこんなの当たり前に結論が出ている話題なのでしょうか。考えられる一番の問題としては、環境への適応力は著しく低下するであろう事でしょうかね…それもまた杞憂ならば良いのですが。

いつものアレ

旅行後の疲れがどっと出ています。今回はそんなにダメージ出ないなぁ、不思議だなぁ、なんて思っていたら、午後からガツンと出ました。昼食後に廊下で寝て、しばらくして目が覚めて台所の片付けを手伝って今度はちゃんと布団で寝るという。

まあアレですよ。車移動ですから家族は車中で休憩できますが、運転手は休憩無しですからね。翌日に疲れが出ても仕方ないのですよ。今月には44歳ですから。頑丈な44歳もたくさんいるでしょうが、弱ってきている44歳もたくさんいるでしょう。私は弱ってきているチームですからね。

それでも、子どもたちが「また行きたい」と言ってくれるものですから、しばらくすると元気が出てきて次の旅行を計画するんです。師匠の体調なんかを注視しながら、まだ留守にしても大丈夫そうだ、なんて考えながら。(今の所私よりタフなので心配無用と言えるほどなのですが、逆にそれが心配な年齢にもなってきました)

昨日おとといと得られなかったエアコンの涼風にあたりながら、疲れを癒しています。もはや私には欠かせないものとなりました。エアコンがなければとうに命を失っていてもおかしくないほどです。ありがたやありがたや。

息子が発明クラブに通っていて、大抵何かしらの作品を持って帰ってきます。余裕があるといくつも作れるようで、今日は家族みんなにお土産がありました。これがなかなか楽しい作品が多くて、息子も夢中になって作っているようで、嬉しく思っています。親と一緒だと、あれこれ口から手から出てしまいがちですからね。解放されて思うように何かが出来るというのは、きっと代え難い体験になっていると思います。息子の友人に誘われての参加だったんですが、それがなかったら多分行ってなかったと思うので、そこまで含めて感謝ですね。今日はいつにも増して、感謝することが多いなぁ。

待望のジップラインを体験

私と長女は、昨夏に沖縄のホテルで体験していたんです。すごく怖そうに見えたので腰は引けていたのですが、なぜか長女がやりたがっていて、普段はこうしたものはなるべく避ける子がやる気を出しているとなれば父親は頑張らざるを得ません。それで挑戦したのですが、全然怖くはなくて、とても楽しかったのです。ジェットコースターと違って落下しませんから、ただただ気持ちがいいんです。

お値段は高かったですけどね!ホテル敷地内という場所代と、保険代でしょうか。でも、風がある程度出ていると運行中止になってしまうところ、帰る日の午前中、それも10時過ぎぐらいになって急に運行されて、ギリギリ体験できたんです。ラッキーだったと言えるでしょう。

怖いものだと思って眺めていた次女が、実は楽しいものだったと気がついたものですから、あれをやってみたい!となるのも分かります。その時には言い出せなかったようですが、誕生日に合わせてどこかお出かけしたい?と聞いた時の反応がジップラインでした。

それから数えてもすでに数ヶ月が経っています。ようやく、とうとう、次女待望のジップラインです。身長制限を設けている施設が多い中、家族全員が参加できて、雨でもOKで(私が雨男なので)、という具合に条件がいろいろあったのですが、それらを見事にクリアしたのがひるがの高原のジップラインでした。

沖縄で体験したのは一回滑っておしまいのタイプでしたが、こちらのジップラインは山の上から降りながら、6回滑ることができます。体験時間としては2時間と書かれていましたが、なんだかんだ2時間半ぐらいかかりました。あっという間でしたけれどもね。

距離はそんなに長くないんですが、それでも滑りながらどんぐりを的に向かって投げるコースや、二人で手を繋いで滑ったり、ほうきにまたがってすべれたり、背中で吊ってさながら飛んでいるように滑ったりと、多岐に渡った楽しみ方ができました。

気温は予報通り高かったのですが、ほとんどが森の中で展開されるので、思ったよりは暑くなく、私でもなんとかなりました。それでも、他のグループの参加者の中にはグロッキーな顔をして休憩している方も見かるほどでしたので、油断はできない気候でしたね。ジップラインを終えてからも喉の渇きがなかなか解消されず、数時間かけて帰宅した後もまだまだ飲みたいと思うほどでした。

今まで涼しかったであろう場所ゆえ、エアコンがほとんど導入されていないことも旅行者の体調に影響を与えていたと思います。私のように暑さに弱くなってしまった人以外の、自律神経がちゃんと働く人であっても、知らぬ間に疲れてしまっているんだと思います。エアコン慣れしちゃってますからね。何かしらの施設に入れば普通はエアコンが効いていると、普通の海抜に暮らしているとそれが当然のように考えてしまうと思いますが、高原地帯ではスーパーとコンビニぐらいしかエアコンが効いていませんからね。日中の快適度で言えば、都市部にお出かけしていた方が快適かもしれません。

もっとも、都市部の屋外の酷暑っぷりは殺人的ですからね。そこは忘れないようにしませんと。

心配していた暑さに大敗を喫することもなく、娘との約束も無事に果たせた1日となりました。さあ、次の要望はなんだ!なんでも言ってこい!なるべくお金がかからないやつを頼むぞ!

気持ちの切り替えも僧侶にはとても大事。世間の評価はよろしくないでしょうけれど。

大切な方の葬儀を終えました。ご遺族の涙を見ていると辛いですし、気丈に振る舞う喪主さんの姿も気持ちを知っているととても辛いです。火葬場ではついもらい泣きをしそうになりながら。

私にとっても辛い葬儀を終えて、しかしその勢いで旅行なのです。子どもたちとの約束の旅行。次女の誕生日に果たせなかったジップラインをやりたいという願いを叶える旅行。たとえ葬儀と重なってもジップラインだけは体験できるようにと、友引に合わせて旅程を組んでいました。

だからある意味では、この気持ちの切り替え速度は想定されたものなのです。一年中喪に服しているわけには参りません。

5月にも滞在したひるがの高原へ再訪です。同じところへ泊まりたかったのですが、あいにく満室のために別のところとなりましたが、今回もコテージ泊。エアコンがなくて驚きました。高原だから今までは不要だったのでしょう。でも暑いです…

しかし21時を過ぎるとさすが高原。涼しい。外に出ると冷やっとします。日中の最高気温は30度まで達するというのに、夜は20度を下回ります。体を休めるには十分涼しい。ただ、木製ロッジの中はなかなか冷めません。ロフトが寝室になっているので、つまりあったかい空気がたまる高い場所で寝なくてはなりません。この辺はテント泊の方が涼しいんでしょうね。設営済みのテントに泊まるプランもあったのですが、子連れで泊まるにはまだ難易度が高い気がしてコテージにしたんですよ。でも今回に限ってはテントの方が良かったかも。定員はオーバーしていたと思うので、ふた張り借りることになるので、割高だったような記憶もあります。理由としてはこちらの方が大きかったかも…

日中に白川郷まで足を延ばす予定だったのですが。さすがに今回は移動するので精一杯の時間となってしまったので、断念。なかなか白川郷へ行けません。また次の機会を狙いたいと思います。

ジップラインは明日の午後の予約です。なんと、天気予報ではちょうどその時間帯だけ33度などと意味不明な数字が書かれています。高原ですよね?冬はスキー場になる場所を使ってるんですよね?それを信じて暑さに弱い私が屋外アクティビティを躊躇なく予約したんですよ?

その点だけが心配でなりません。寝室が暑い問題は、扇風機が一番当たるポジションを割り当てられたので、さほどの心配はなさそうです。湿度は湖西ほど高くはないみたいですね。ということは、明日の日中の気温もさほど辛くはないかなぁ、なんて希望を抱いています。

こんな具合に僧侶は気持ちを切り替えています。ただ、夜になると、切り替えを持続できなくなりもするんですよ。特に今回のようなケースでは。まあそれも、人としての当たり前の感情の発露だと、観察をしておきます。

導師は葬儀で泣いてもいいのか

少し前に葬儀屋さんがTwitterで、葬儀社の職員が葬儀で泣いてしまっていいのかどうかという話題を振ってらっしゃいました。それに伴って当然僧侶もどうしたものかという話題にも発展するわけですが。

この話題はいつの時代にも繰り返されてきた話だと思います。葬儀社という存在もかなり昔からありますし、僧侶が在家信者の葬儀に関わるようになってからの歴史も長いです。その間に、おそらく度々議論に上っていたのではないでしょうか。それぐらい普遍的な出来事だからです。

それがなぜ結論が出るようで出ないまま来ているかというと、鯔のつまり、儀式の進行役である人間が泣いてちゃ先に進まんだろうが、という視点があります。どんなに悲しい葬儀の場にも、時間は流れています。火葬場の予約もありますから、葬儀予定時間を大幅にオーバーするようなことになると、問題が出てきます。

悲しむのは遺族と会葬者であって、進行役の立場の人間は、そこに押し流されることなく儀式を進めていかなくてはなりません。そのことについては100%同意です。それでも議論になるのは、やはり人間の情ですよ。泣ける時は泣けるんですよ。そのことまでも否定していいものか、というわけです。

いやいや、もっともっと深いところが根底にあるのかもしれませんけどね。当事者になりがちな私の意見としては、その程度の浅いところです。

人前で泣きたくないという当たり前の思いもあります。最近では言葉に詰まるぐらいどうってことなくなりましたが。最後まで喋れればオッケーぐらいに私の中の基準は緩んでます。そのせいで、したくもないと思っていたもらい泣きをしてしまった方がいらしたら申し訳ないです。でも感情を全て押し殺すことが仏の道ではありませんしね。泣きたい時は泣きましょう。そういう気持ちの中で、精一杯儀式も進めていく。それでいいではないか、という意見に現時点ではたどり着いています。

幸い、私は葬儀社ではなく、職員もいません。弟子が現れればそれなりの指導が必要となりますが、この辺の考え方については指導の名の下に強制するよりも、自分の中でたどり着いた方がいいので、普遍的な回答を求める必要はありません。葬儀社さんの場合はそうもいかず、会社としてある程度の方針を決めておかないといけないでしょうから、大変ですよね。

控室に入り、喪主さんとお話ししたのち、法会に着替え、お袈裟をつける。搭袈裟偈を読むことで心が定まれば、あとはその心に従うのみです。自分がその時にこれが一番という方法で、お釈迦様から連なる仏法を示すべく、使える手はなんでも使う。それが意識的であれ無意識的であれ、自分の行いに自信を持って。

そんな心持ちで、本日もお通夜へ向かいます。行ってきます。